皆様が食べているじゃがいも、その歴史は古く紀元前7千年前には誕生していたとされます。長い歴史の中で幾度となく起こる飢饉などの際に糧として我々人間を救ってきました。そんなじゃがいもの歴史をひも解いていきます。
世界におけるじゃがいもの歴史
じゃがいもの起源から現在までどの様な経路で世界有数の野菜になったかを見ていきましょう。
じゃがいもの誕生
紀元前7000年前
発祥は南アンデス山脈のチチカカ湖畔とされており、当時の先住民であるインディオなどにとってトウモロコシなどと並びすでに食文化の一つとして定着していたそうです。最初のじゃがいもと言われているのは、小さくておいしいがあまりとれないソラナムフレハという品種であったとされます。
その後突然染色体が倍化して大きくなったソラナムアンディジェナが出現し、おいしくはないが生産量の多いじゃがいもが南米各地に広がったがあまりおいしくなかったため、結局フレハの方を自給用に栽培し続けたと考えられています。
時を経て幾つかの文明からインカ文明へとじゃがいもは引き続き受け継がれていきます。
15世紀~16世紀(1400年代~1500年代)
このころに栄えたインカ帝国でも栽培され、この大国の生活の支えとなっていたとされています。
1536年
じゃがいもに関する最初の記述は、スペイン人のCastellanoがコロンビアの高地にあるボゴタの近くで見たという物です。そこにはこう記されており「わずかな薄紫の花とホクホクした美味しい根を持った植物でそれはインディオにとってきわめて心地よい賜物であり、スペイン人にとっても美味な食物である」とある。
1538年
スペイン提督シエサ・デ・レオンがじゃがいもを発見しており自分の日誌「ペルー年代記」に栽培方法まで記されています。その中で今でも行われている独特の保存方法であるChunos(チュンニョスまたはチュノーなど)の製法である。これは冬になるとじゃがいもを夜凍らせて、昼は天日で溶かすということを繰り返し、さらに足で踏み水分を抜くという方法で、これにより長期の保存が可能になるのである。
じゃがいも、ヨーロッパへ伝来
1570年頃
じゃがいもがヨーロッパへ伝えられたのは、1570年頃で、インカ帝国滅亡後にスペイン人がジャガイモを本国に持ち帰ったとされています。新大陸のお土産として船乗りや兵士たちによってもたらされたものであろうと推測されています。
じゃがいもをだれが最初に持ち帰ったのかは未だにわかっていない
- 1575年にスペイン無敵艦隊を殲滅したイギリス提督フランシス・ドレイクによって船上食として持ち帰られたとされているがこれはあくまでも伝説であろうという説がある。というのも彼が1581年4月4日にエリザベス女王に敬意を表して催した船上での祝宴メニューにあったとされるが、この数十年前にイギリスにもたらされたサツマイモを歴史家がじゃがいもと勘違いしたものだということ。現に1573年にじゃがいもがスペインに存在したという記録がセビリアのある病院の書庫に残っているため時代意にも合わないということです。
- またウォルター・ローリー卿の支持でバージニアを建設したエリオットがイギリスに持ち帰ったとされる説。ウォルター・ローリー自らが持ち帰ったとされる説がある。
- 奴隷商人のジョン・ホークンスが1565年に、じゃがいもを輸入してその趣旨を植物学者であるジョン・ジェラードに渡し、種子を育て実らせたという主張があるが、実際にジェラードが行ったのは21年後のことであった。
一般的に想定されているのは上記のインカ帝国滅亡後のスペイン人説、またはスペイン人修道士たちの手によってもたらされたものではないか?という説である。
ちなみにスペイン人が最初に持ち帰った芋はソラナムアンジェナであったとされる。
じゃがいもが世界へと広まる
1600年頃
スペインがインカ帝国の遠征から自国に持ち帰えったとされるじゃがいもは、まずは当時スペイン配下にあったナポリ王国へと伝来、ある時に法王の使節がベルギーに行った際にじゃがいもがモーンスの町の総督に贈り物として献上され、それを育てたことによりドイツのじゃがいもの父として称されている。このほかフランスやドイツ、イギリスなどまたたく間に広まったとされる。
この頃オランダ人の手によってインドネシアから日本へとじゃがいもが渡来します。オランダの海外進出を機に世界中へとじゃがいもは伝播されていきました。
じゃがいもの花は観賞用、根っこは悪魔の芋と呼ばれた
17世紀(1600年代)
このころヨーロッパ諸国に広がりを見せるも主に植物学者や研究者が栽培をしていた。きれいに咲く花は観賞用とされ、フランスの宮殿などでも栽培されるも根っこの部分である芋は聖書にない不浄の作物(協会では悪魔の根っこと呼ばれ、砂糖、たばこ、コーヒーと共に悪魔の座る椅子としていた)として嫌われます。フランスでは「じゃがいもを食べるとらい病(ハンセン病)になるなどという迷信があった。中には学校で家族がじゃがいもを食べてるという理由から同席を拒む児童がいたり、じゃがいもを食することが禁じられたりもしたともされる。
- 1619年にスイスの植物学者ボーアンは「ワインで煮るとよいし、特に人生の盛りを過ぎたすべての人々に有効である。」と言っている。
- 1630年代、フランス東部の都市ブザソンでは「じゃがいもを増やすことは禁止する。もしこの禁を破れば、罰金を科す」ということが議会で決定した。
始めて本格的に食用作物として栽培を行ったのはアイルランドでした。そして1621年にはアイルランド移民により北アメリカへわたり、後の独立戦争の際に兵士たちの貴重な食料源となります。
18世紀(1700年代)
- 1748年フランスでは、らい病の迷信はまだ信じられており議会でじゃがいもの栽培を禁止する法律が作られたりもした。
- 1782年フランスでじゃがいものことがこう記載されている。「それ(じゃがいも)はパリでは無名でないけれども、もっぱら下級階級の人々の食物であり、一定の社会的地位のある人々はそれが食卓にのっているのを見ると、自らの権威が損なわれたと考える」(ルグラン・ドシー)
食用としてのじゃがいものひろがり
1756年~
じゃがいもが思うように普及しない中、プロイセン王国(ドイツ)ではフリードリヒ大王が三十年戦争の際に、飢饉対策にじゃがいもを奨励。
フリードリヒは農民にじゃがいもの栽培を強制(じゃがいも令)しました。戦争時の踏み荒らしの影響を受けにくい作物としてじゃがいもは最適だったようです。こうしてじゃがいもは瞬く間にプロイセン全土に広がります。それによりプロイセンは強国への道をたどるとともに飢饉の際には多くの人々が救われることとなります。
フリードリヒ大王最後の戦争となったバイエルン継承戦争は、互いのじゃがいも畑を荒らしあったことから「じゃがいも戦争」とも呼ばれています。
このころフランス王国ブルボン王朝でも広めようとする働きがあり、フランスの薬学者アントアーヌ・オーギュスタン・パルマンティエは1773年にルイ16世にじゃがいもの花束を献上し、救荒作物として勧めました。賛同したフランス王妃マリー・アントワネットが帽子にジャガイモの花を飾ったとされています。これはパルマンティエが七年戦争(1756年~1763年)に軍の薬剤師として従軍した際にプロイセンの捕虜になり、じゃがいもを食べて生き延びた経験から、じゃがいもの普及をはかるためであった。
フランス革命後に皇帝となったナポレオンはパルマンティエの提唱したジャガイモプロジェクトに賛同し財政援助をするのである。これによりナポレオン時代でじゃがいもの生産量は約15倍になったと推定されている。パルマンティエの名前が現在フランスのジャガイモ料理(アッシ・パルマンティエ)の名前になっていたり、駅名になっているのは功績をたたえてのものだろう。
このころからじゃがいもは貧困の者のパンと言われヨーロッパ各地に広がりを見せるのです。
1785年
この時期フランスで起きた不作の際にフランス北部でじゃがいもにより飢饉を免れます。このことはフランスにじゃがいもが定着した理由の一つであるとされている。
一方イギリスではじゃがいもは国策によって評価が左右されジョージ2世(在位1727年~1760年)の時代には法令で禁止されされたこともあったが、ジョージ3世(在位1760年~1820年)の時代には広くいきわたりました。
19世紀(1800年代)
19世紀に入るとドイツでのじゃがいも栽培は国策と印刷物による手引書の普及などと相まって飛躍的拡大を見せ、19世紀末頃にはドイツは世界最大のじゃがいも生産国となります。
1840年~1844年
ロシアでは国有地農民にじゃがいもの強制植付けを命じた為、反対農民による大規模な暴動が起きた。これを受け1843年にロシア政府は説得による普及にシフトチェンジして成功、これにより作付け面積が増える結果につながります。
1845年~1849年(ジャガイモ飢饉)
アイルランド人はかつて英国との戦争に敗北した経緯から農地の2/3で小麦を作りそのほぼ全てを地主に収奪されてしまうため残り1/3で栽培したじゃがいもを食料としていました。しかし1845年~1849年の4年間にわたり、ヨーロッパでジャガイモの疫病が大量発生したことを受け100万人以上の餓死者を出しました。それほど庶民はじゃがいもに頼った生活をしていたといえます。これをうけてイングランド、北アメリカ、オーストラリアに計200万人以上が移住したとされる。
この時アメリカに渡ったアイルランド系移民の中にはケネディ家の先祖も含まれておりアイルランド系移民は後にその国々で大きな影響力を持つこととなるのです。
この頃ジャガイモは疫病こそあったものの高い評価を受け、アダムスミスは「国富論」において「小麦の三倍の生産量がある」と評価しており瞬く間に麦、米、玉蜀黍に並ぶ「世界四大作物」としてその地位を確立するおことなるのです。
日本でのじゃがいもの歴史
1598年(慶長3年)
諸説ありますが、1598年にオランダ人によって、ジャワ島のジャガタラを経由して長崎に持ち込まれたとされています。
1700年代
江戸時代後期の18世紀にはロシア人の影響で北海道、東北地方に移入され、飢饉対策として栽培され始めます。
1784年(天明4年)
仲居清太夫(1732年~1795年)はがジャガイモ栽培を奨励。甲州に導入した確実な記録は見当たらないが、清太夫が甲州代官時代に幕府の許可を得て種芋を九州から取り寄せ、九一色郷の村々に栽培させたといわれています。その結果甲斐国に共有さらに、信州、越後(新潟)、上野(群馬)、下野(栃木)、武蔵(埼玉、東京、神奈川)、秩父(埼玉)等まで急速に普及していった。信濃、越後、上野、下野では「甲州芋」と呼んでいるため甲州から伝わったのは間違いない)この清太夫の活躍により主に東北地方に大きな影響をもたらした天明の大飢饉(1782年~1788年)ではじゃがいもにより餓死を免れた人は多数に及び、清太夫は「芋大明神」として鎌倉建長寺中川貫道管長の書により碑と由来碑が建立されている。
1789年~1801年(寛政年間)
アイヌのジャガイモ栽培の始まり。探検家の最上徳内がアブタ場所(現在の洞爺湖虻田鱁)に種芋を持ち込み、アイヌに栽培させたのが北海道の伝来とされている。
1801年(享保元年)
植物学者である小野蘭山が甲斐国黒平村(甲府市)においてじゃがいもの栽培を記録している。
ちなみに小野はじゃがいもの別名馬鈴薯を名付けた人物である。(正確には馬鈴薯というつる性植物に対しジャガタライモを誤ってあてて書に記載した事で馬鈴薯=ジャガタライモになってしまった)
1833年(天保4年)
数年に渡る、天保の大飢饉ではじゃがいものおかげで餓死を免れた人は多数に及ぶ。
1837年(天保7年)
蘭学者の高野長英(1804年~1850年)はじゃがいも栽培を奨励している。「二物考」1837年には馬鈴薯の和名であったジャガタライモ、甲州芋、清太夫イモ、清太イモなどの名で呼ばれている。
1868年~(明治維新後)
この頃から北海道の開拓の為、本格的に導入。ウイリアムクラークスミス(札幌農学校初代初代教頭、「少年よ、大志を抱け」の言葉で知られるクラーク博士である)に学び、後に「芋半官」と呼ばれた初代根室県令湯地定基により普及した。
1908年(明治41年)
川田龍吉男爵(1856~1951年)はじゃがいものアイリッシュコブラー品種(導入した時点ではアイリッシュコブラーだとは知らず、後に判明)を自営の農場に輸入(導入)し普及を図る。これこそが後の男爵イモである。
1911年(明治44年)
函館ドックも退社し余生を北海道農業の近代化のために捧げることを決意した川田龍吉は渡島当別(現北海道北斗市)山林の内の払い下げ農場を建設、最新式の農機具を多数輸入し機械化による農業を試みた。
1928年(昭和3年)
北海道で男爵芋は優良品種となった。
1975年(昭和50年)4月
北海道斜里群清里町の清里町焼酎醸造事務所が、日本で最初のジャガイモ焼酎、清里焼酎を製造販売した。
戦時中のじゃがいもの活躍
20世紀
じゃがいもは飢饉や戦争などの貧困時に救済食物として大きく貢献してきました。先の大戦時にもじゃがいもは世界で人々の命を救うこととなります。
ドイツでは戦争末期から戦後にかけてティアガルテン(=現在では小型の動物園を指し、かつてプロイセン王国の狩猟場をこう呼んだ)と呼ばれる獣園をすべてじゃがいも畑にして市民の生活を支えた。
ロシアでは1843年に行われた政策後1900年にかけて大きく作付面積が増え大戦のさなか国民の生活の支えとなった。またその後の社会主義国家誕生の際の食糧難においてもじゃがいもは大きな支えとなったのである。
日本でも戦時中の食料統制の中じゃがいもを男爵芋に統一するなど、重要な食料として考えられた。
21世紀~
今後またいつ起こるかわからない食糧難の時にじゃがいもが我々の窮地を救ってくれるかもしれません・・・