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トマト歴史『悪魔の実』と呼ばれた過去

トマト歴史

トマトの歴史は古く栽培トマトの成立は紀元後1000年頃と推測されています。その間に世界中に広まり品種の数は世界で1万種以上とも言われている。

現在では皆様の食卓を彩り親しまれているトマトですが、過去には悪魔の実と恐れられ、嫌われていた時代もあります。今回はそんなトマト歴史を解説していきます。

トマト
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トマト歴史 トマトの発祥

栽培トマトの成立は紀元後1000年頃と推測されており、原産地は、南アメリカのペルー、エクアドルにまたがるアンデス山脈と言われいて先住民族のインディオによって栽培されていた。

この当時のトマトはチェリータイプ(ミニトマト)のトマトであった。この野生種は人間や鳥によって10世紀ころにメキシコへと運ばれそこで栽培されて食用になったと考えられています。

トマト歴史 トマトヨーロッパへ伝わる

ヨーロッパ

トマトがヨーロッパに伝わる経緯には大航海時代が大いに関係をしており時のコロンブスが1492年に新大陸を発見することでトマトがヨーロッパに伝来することとなるのです。

1492年・・・コロンブスが新大陸発見

1521年・・・スペインがアステカ王国を征服。

1523年頃・・・アステカ王国を征服したスペイン人エルナン・コルテス(スペイン王カルロス1世の命の元1519年にメキシコに上陸し現在のベラクルスを拠点としそこからアステカに進軍、征服した。)により初めてヨーロッパに伝えられたとされる。

1544年・・・イタリアに伝播。(当時はスペインの支配下でナポリ王国と呼ばれていた。)同年イタリア人植物学者マッティオーリが出版した「博物誌」にトマトが記載されておりこれがトマトに関する最古の文献とされる。

1554年・・・トマトのイタリア語であるポモドーロ(黄金のリンゴ)という名前はマッティオーリが出版した改訂版、「博物誌」の中に記載されている。そこには「熟すると黄色になるものと赤色になるもの」と書かれていることから彼が最初に見たトマトは黄色品種やオレンジ色の品種だったのかもしれません。

1575年・・・イギリスに伝播。さらには中欧諸国にも伝播されることになる。

「悪魔の実」と呼ばれたトマト

16世紀(1500年代)半ばヨーロッパのほとんどの国に伝播するも、観賞用とされほとんど普及することもなかった。というのも当時珍しい真っ赤な果実は有毒植物と思われ(一説には同じナス科の有毒植物であるベラドンナの実に似ていたからともいわれています。)「悪魔の実」と恐れられていました。このことから食用になるまで長い年月がかかります。

トマトの学名が「ソラナム・リコペルシコン」と命名

1754年 イギリスの植物学者フィリップ・ミラーがトマトの学名を「ソラナム・リコぺルシコン」と命名。リコペルシコンは「狼(lycos)」と「桃(persicon)」を合体させた言葉です。

かんのいい人ならお気づきかもしれませんがトマトに含有されるリコピンの名前もここからきています。

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トマト歴史 食用としてのトマト

トマトスープ

ヨーロッパに渡ってからおよそ200年、観賞用として栽培が続けられてきたトマトですが食用として栽培される転機が訪れます。

18世紀(1700年代)この頃にイタリアでトマトが食べ始められるようになります。最初に食べたのはイタリアの豪邸で働く庭師の青年であるとされ、当時貧富の差が激しかった時代、貧困層である青年は食料がない為にしかたがなくトマトを食べたとされています。しかし全く害がなかったため、ここから貧困層を中心に食べ始め、食用としてのトマトが普及を始めることとなります。

こから今までの歴史が嘘だったかのようにトマトはイタリア中に広まります。当時パスタソースに羊のチーズをおろしたものや塩、胡椒を用いていましたが、トマトがこれにかわり利用されるようになりました。そして18世紀の内にケチャップ、トマトソースが作られるようになったのです。

また18世紀末にはフランス・オランダ・ドイツなどで食用種が改良されました。同時にケチャップなどにも加工されることとなります。

トマト歴史 トマトがアメリカに

アメリカ

18世紀末このころアメリカにもヨーロッパから伝来することとなります。ただヨーロッパと同じように最初はほとんど普及することがなく観賞用として用いられていました。食用として普及するのはもう少し後の事になります。ちなみに当時バージニア州知事であり後に第3代大統領となりアメリカ建国の父とまで称されたトーマス・ジェファーソンが1781年に自宅の庭で栽培を始めたという記録が残っています。

19世紀(1800年代)に入るとニューオリンズでは旧フランス領であった影響からか料理人たちが普通にトマトを使用するようになっていました。また最先端の東アメリカの都市部ではトマト料理は徐々に普及するもののまだまだ毒とされている地域の方が圧倒的に多かったのが現実です。

トマトを広めたロバート・ジョンソン

1820年9月26日にはニュージャージー州の軍人であり農場主でもあるロバート・ギボン・ションソン大佐がニュージャージー州セーラム群(現在のウィンストン・セーラム)の裁判所前の階段に人々集めて、大勢の民衆の前で自家栽培したトマトを食べると宣言。町医者であるミーター博士はトマトを食べたら死んでしまうと力説し彼に思いとどまるよう説得したが聞き入れられませんでした。当時トマトを食べることは肺炎の原因とも胃癌の原因になるとも言われておりました。(当然医学的根拠は存在しません)そんな中ジョンソン大佐はトマトをいくつも食べ、トマトが無毒であることを証明したのです。ちなみにこれを見てた人の中には気絶した人もいたとか。ジョンソン氏はその後もこうした行為を行いトマトの普及に努めたそうです。

なぜジョンソン大佐はこんな無謀なことをしたかと言いますと、ジョンソン大佐はこの12年前にヨーロッパを訪れた際、すでにヨーロッパの人々がトマトを普通に食していたのを知っていたからなのです。それで偏見を払拭するためにこのようなパフォーマンスを行ったのです。

ただこうしたことを受けても、雑誌などには「3時間以上煮込んでから食べること」などの記事が記されていた。

ジョンソン大佐の功績を称え1989年~1993年にはジョンソン・デイとして、このエピソードを再現する祭りが開催されました。

リンカーン大統領トマト暗殺未遂事件

1860年代には時の16代大統領エイブラハム・リンカーン(任期1861~1865年)に対し、政府反対派がトマトを食べさせることで暗殺をしようと画策した。しかし暗殺犯の一味である料理人が気を咎め共犯者の名前を書いた遺書を残して自殺、これにより暗殺(食べても死ななかったが)は未遂に終わった。こののちにリンカーンはトマト料理を食べて見せ、トマトに害はないという決定打を放ちアメリカでは一気に人気の野菜になるのである。

1920年代までは魅力的な女性のことを「ホットトマト」として称した。一躍人気になったトマトはこのような形でも用いられた。現在は死語である。

野菜か果物か?トマト裁判

1887年にトマトは野菜であり関税の対象とされたが、この時果物は関税の対象ではなかったためジョン・ニックスというトマト輸入業者がニューヨーク港の徴税人エドワード・L・ヘッデンを訴え、トマトは果物だったので免税にすべきと主張。

しかし1893年にトマトはキュウリや南瓜と同じように野菜でデザートにはならないとして、関税の対象であると米国最高裁判所で裁定された。なお裁判当時の記録としてローラ・インガルス・ワイルダーの小説「大草原の小さな家」にはトマトにクリームと砂糖を食べる記載がある。

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トマト歴史 日本でのトマト

トマト煮込み

日本にオランダ経由で長崎に伝播することになりますがその前にはすでにアジアに伝播されスペイン人によってフィリピンに入り、1650年にはマレーシア東部で栽培が開始されていた。またネパールではヨーロッパよりも早く食用とされていたという説があり、16世紀半ばにネパールの料理本にトマトについての言及があったとされる。日本のトマトの伝播は鎖国などの影響からかアジアの中では比較的遅かったのである。

トマトが日本へ伝播

わが国には寛文年間の1670年ころにオランダ経由(予測)で長崎に伝来した記録はあるが、その頃はアカナスと呼ばれ観賞用として栽培されていた。1708年に「蕃柿(ばんがき)」の名で観賞用として紹介されている。(ちなみに中国では現在も「西紅柿」と呼ばれている)

江戸時代の徳川四大将軍家綱のお抱え絵師である狩野探幽が寛文8年(1668年)に「草木寫生圖卷」にトマト(唐なすび)として描いています。また貝原益軒の「大和本草」(1709年刊行)にもトマトの記述があります。

最初に伝えられたトマトは今のミニトマトに似ているほうずきよりも大きい程度の小さなものだった。この当時は日本でもヨーロッパ同様に観賞用とされました。

トマトが食用として普及を始める

1876年(明治9年)にアメリカから帰国した大藤松五郎はトマトが普及する数年前に日本でトマトを最初に加工した人物であったが加工したものはすぐに腐ってしまったという。

1887年(明治20年)頃からトマトが食用として普及をし始めたのはとされております。

生で食べるという風習も当時はなく観賞用として位置づいていたトマトを食べるというのは難しかったようです。

1893年(明治26年)9月24日から福沢諭吉は自身が発行している「時事新報」という雑誌の中で「何にしようね」という日本で初めての料理レシピ集の連載を開始した。その中で日本の西洋野菜などの普及による国際化を考えトマトをはじめとする西洋野菜を取り上げていた。

日本で初めての食用トマト栽培からトマトソースの誕生

1899年(明治32年)にカゴメの創始者である蟹江一太郎は兵役を終えて帰京した翌1899年に愛知県知多郡荒尾村(現在の東海市荒尾町)自宅脇でトマトをはじめとした西洋野菜の種を蒔き西洋野菜をホテルや西洋料理店に販売した。しかし青臭さと、真っ赤な色が敬遠され売れず。その時西洋では加工していると聞きトマトソースの開発に着手。

1903年(明治36年)トマトソース(現在のトマトピューレ)が完成。1908年にトマトケチャップとウスターソースの製造開始。

トマトの庶民化

大正時代(1912年~1926年)に入るころには日本人の味覚も西洋化してきておりケチャップの登場などでトマトは普及していったのである。

昭和時代(1925年~1989年)に入り日本人好みに品種改良なども施されていく。第二次大戦のあと食文化の西洋化にともない一般家庭にも急激にトマトは普及することとなります。

昭和初期にはトマトピューレなどを用いた日本生まれの西洋風料理であるナポリタンやドリアなどが出来たりもしました。

トマトの変遷記~現代

昭和はトマトの変遷期ともいえ、初めは店頭に出るまでに追熟させる「青もぎトマト」から、1950年代(昭和25年~)には酸味は薄いが果肉が多くて崩れにくい「ファーストトマト」が広がりを見せたがその後、都市部の近代化に伴い、栽培地が遠方になってしまう。このことを受けトマトに配送中、傷などがついてしまうなどの問題が発生。これを解消するため、未完熟の状態で発送し、発送している際に完熟さえるという手法をとるようになった。このことから味、栄養価などは同じ品種でも昭和初期に店頭に並んでいたトマトと雲泥の差が出てしまうこととなりトマトの評価を下げる原因にもなった。

1990年(平成2年)以降現れた桃太郎トマトの出現により、こうした問題が解消されます。桃太郎品種は完熟状態で配送しても傷がつきにくい為、しっかりと育てた後で配送できることで、瞬く間に全国に広まり一躍トマトの主流へと上り詰めました。このことを受け「ファーストトマト」はその座を奪われることとなるのです。

現在スーパーなどで並んでいる大玉トマトのほとんどは桃太郎品種であるほか、近年では、赤や黄の小型のミニトマトも生食用として広く出回っている。