魚ことわざを31個程紹介させて頂きます。
知っているだけで話のネタになると思います。私この手の話が好きでカウンターでお客さんとお話することが多かった時、非常に役に立ちました。
海老で鯛を釣る
(えびでたいをつる)
わずかな元手で大きな利益を得るという事。『えびたい』『えびでたい』ともいう。例えば貰い物のリンゴをお隣さんにあげた所、お返しにウニやイクラを貰いました。『ラッキーエビタイだ!』この様に使います。言葉通りエビで鯛を釣るのは事実なのだが最近はエビも高いので、釣りではなかなかエビタイとは行かないようだ。
唐墨親子
(からすみおやこ)
唐墨はボラの卵巣に塩をして干した珍味で、手のかかる高価な品。そこで平凡な親(ボラ)から非凡な子(唐墨)が生まれることのたとえに使われる。唐墨は懐石料理の八寸などで良く使われる。大根に挟んで提供したりする。酒好きにはたまらない一品だが、玉露に良く合うのはあまり知られていない。同じ様な意味で『鳶が鷹を生む』という言葉がある。
https://wareitamae.com/autumn-fish/bora鯖を読む
(さばをよむ)
物の勘定をするときに、都合のいいようにごまかす事。昔,漁師から魚を仕入れるには一匹ずつ数えながら籠に入れてもらったが、素手で魚を持つと痛むのが早い事から物凄いスピードで数える。手より口の方が早くなってごまかされた事からきている。なかでも鯖は「鯖の生き腐れ」というくらい足が早いから、よっぽど早く数えられていてごまかしも多かったのではないだろうか。
足が早いというのは、痛むのが早いという事。
とどのつまり
やるだけの事はやった後の最後のところ。「とどのつまり、だめだった」というように一般的に思わしくない結果に使う。とどとは、出生魚のボラの最後の成長過程に使われる名称。各地で多少名称は変わるが、オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ→トドとなる。この最後の名だからとどのつまりという。
海鼠を藁でつなぐ
(なまこをわらでつなぐ)
伸び縮みが自由(緩急自在)な事のたとえに使う。または、弱みをつかまれると、たちまち閉口するたとえに使う地方もある。
コノワタが好きな人でも、生きている海鼠の姿を見たら気味悪がるだろう、しかし藁でぐるぐると縛り上げてしまうと簡単に縮み上がってしまう様からできた。
柳の下の泥鰌
(やなぎのしたのどじょう)
偶然に幸運を手にしたからといって、同じ方法でまた得られるとは考えない方がいいという教え。
柳の下あたりには、フナやドジョウが泳いでいそうな気がする。ここでドジョウを一度釣ったけらと言って、その場所にドジョウがまたいるとは限らないというような事からきている言葉。
鮟鱇の待ち食い
(あんこうのまちぐい)
少しも働かず座っているだけで、出てきたご馳走を平らげる様子。食べる事に不自由しない例えに使われる。
アンコウという魚は、保護色をしていて海底にじっと伏し、頭上の細長いひれ(提灯と呼ばれる)をひらひらさせている。自ら進んで餌を求めようとしないが、これが釣竿の役目をしていて、それとも知らない小魚が誘われて近寄ると、大きな口でパクリと飲み込んでしまい、後は砂の中にもぐって、ゆっくり食うというしたたかな魚
沖の魬
(おきのはまち)
当てにならない事のたとえ
ハマチはブリの幼名。ブリは主に沿岸近くへ泳いできた時に網を仕掛けて取る、しかしブリは神経過敏な魚なので、少し物音にも気が付いて潜ってしまう。網を仕掛けたからといって必ず取れるとは限らない。まして沖合を遊泳するハマチは手にするまで当てにならない事からきた言葉。
鯛もひとりはうまからず
食欲や味覚は、雰囲気や一緒にいる人、その時の気分や条件で影響を受けるたとえ。
魚の中で最高とされる鯛。しかし一人で食べる鯛はうまくない。しかし気の合った仲間と卓を囲む時と、仕事先の利害の絡んだ会食ではまったく味が変わるだろう。この様なことからきた言葉。
月とスッポン
比べようのないものを比べるたとえに使われる。
スッポンは背が柔らかい淡水産のカメ。甲羅が他のカメのように六角でなく丸い形をしている、関西では昔からスッポンの事を「マル」と呼んできた。そこで月が丸いのとスッポンが丸いのとをもとに、同じ丸いといっても、比べようもない事からきた言葉。ちなみに江戸時代は天然のスッポンはよくとれ、庶民のスタミナ食だった。現在では高級食となってしまった。
猫に鰹節
(ねこにかつおぶし)
ネコに鰹節を見せておいて、食ってはいけないと言っても無理なように、好物がそばにあるのは気が抜けない、油断ならないということ。この様な状態にしておいて後で文句を言っても後悔先に立たずだから、こんな状態にしてはいけない、もし、そんな状態ならくれぐれも気を付けなくてはならないという先人の教え。
鰯で精進落ち
(いわしでしょうじんおち)
長い間の苦労が報われない、あるいは、つまらないことで努力が無駄になったり、つまらないことで不名誉な立場に置かれたりすることのたとえに用いられる。
肉食をしないで野菜だけを食べていた精進の期間が終わり、普通の生活に戻れることを精進落ちという。ずっと魚肉を我慢していたのに、せっかくの精進明けを鰯のような駄魚で祝うなんてとがっかりしたすることから。
蛸は身を食う足を食う
(たこはみをくうあしをくう)
自分で資本や財産を食い減らしていくことのたとえ。
蛸は身を食い足を食うのは事実。蛸は極めて貪食で生きた小魚、カニ、エビ、貝などを好む、時には共食いや自身の足を食ったりする。この様な事から出来た言葉。会社が信用を保つために、株主に配当すべき利益がないとき自己資本を削って配当することを「蛸配(たこはい)」という。
たらふく食う
たらふくとは「鱈腹」と書きます。腹いっぱい飽き足りるほど食べること。
鱈腹とは当て字。しかし鱈は胃袋が大きく手当たり次第に何でも食べてしまう。鱈の胃の中を調べたところ100種類以上の動物が見つかったこともあるという。
雑魚の魚交じり
(ざこのととまじり)
社会的にも評価のある人や有能な人が、つまらない人と付き合っていることを言う。また囲碁の世界では未熟者が実力者たちの集まりなどに入っている時にも使われる。
地引網を引いた時などは狙いの大きな魚に交じってつまらない小さな魚、雑魚もかかる、この様子から出来た言葉。
魚を得て筌を忘れる
(さかなをえてえをわすれる)
目的を達成すれば手段を忘れてしまう事のたとえ。また、恩を受けたのに報いない事もさす。
筌は細い竹を筒状に組んだ魚を取る道具。
「魚を取ってしまえば筌はもう用がないから忘れるものだ、ウサギを捕まえるためにわなを用意するが、つかまえてしまえば、わなのことは忘れてしまうものだ。」という荘子にもとづく格言。
魚を食らいて返すことなし
(さかなをくらいてかえすことなし)
余裕を持って暮らし、悪友を持たないこと
中国のことわざで、魚を食べるときは、片側だけ食べて半分は残しておくこと。これは「晏子春秋(あんししゅんじゅう)」の「魚を食らいて反すること無かれ。駑馬に乗る勿れ」からひいたもの。「人々が苦労して手に入れた魚を一人じめして民の力を消耗させてはならない、またどば(のろい馬)のように愚かな家臣をそばにおいてはならない」という格言からきている。
木に縁りて魚を求む
(きによりてさかなをもとむ)
始から無理な事のたとえ。全く見当違いだという事。
中国のことわざ。木に登って魚を取ろうとすること、木に登って魚が取れるわけがないのだからということ。「戦争をしないと言いながら、中国全土を治め様とする野望を持つとは、まるで気によじ登って魚を求めるかのようなものだ。」という、孟子が王に忠告した故事から生まれた。同じ意味を持つ言葉に「天を指して魚を射る」という言葉もある。
漁夫の利
(ぎょふのり)
他人の争いに付け込んで、第三者が苦労せず利益を横取りすること。
川のほとりで貝を取り合っている二匹の鳥、二匹の鳥はくちばしに貝をくわえ、引っ張り合いをしている。その必死な様を漁師が見つけ何の苦労もせず、鶏2匹と貝を手に入れた。
水魚の交わり
(すいぎょのまじわり)
水と魚の様な関係で、とても親密な間柄をいう
中国の「蜀志」にでてくる。三国志の蜀の劉備は、戦略家の諸葛孔明と急激に親しくなった、古くからいた家臣たちはこれを面白くは思わなかった。それを感じた劉備が「私にとって孔明が必要なのは、魚に水が必要なくらい欠かせないものだ、諸君は二度と文句を言わないでもらいたい。」と家臣達に言ったとされている。
干潟の鰯
(ひがたのいわし)
危険が迫っているのに手も足も出ない状況の事
潮が引いた後干潟に残った鰯。もう逃げようもなく、にっちもさっちもいかない。似たような言葉として「水を離れた魚」「木から落ちた猿」「おかに上がったカッパ」などがある。また反対の意味を持つ言葉として「水を得た魚」がある
俎の鯉
(まないたのこい)
まな板にのせられた鯉は、じっと覚悟を決め動かなくなる。まるで「切るなら切れ」と言わんばかりに。この姿がいざという時のお手本のようだという事で使われる。
風前の灯で、相手のなすがままになるほかに手がない状態。こんな時に、潔さをみせる人は「俎に横になる」といい。逆に自分の状態が分かっていない人の事を「俎の上の餌を拾う鳥」と馬鹿にされた。
水清ければ魚住まず
(みずきよければさかなすまず)
魚と水の関係は切っても切れないが、どんな水でも良いかといえばそうでもない。あまり綺麗すぎるすぎる水には隠れる場所がなく、魚は住めない。世の中うまくいかないもので、何でもかんでも綺麗な事が良いかと言うと、そうとも限らない事のたとえ。
人格が清廉潔白、高潔なら良いかというと、かえって敬遠され、なつかれない。「水至って清ければ魚住まず」と同義
磯の鮑の片思い
(いそのあわびのかたおもい)
アワビは貝殻が片側にしかないように見えるので、もどかしい片思いの代表にされてきた。最近では聞かなくなったがロマンチックな愛の表現の一つ
この様な言い方は昔からあった。「伊勢のあまの朝な夕なにかづくといふあわび貝の片思ひして」と万葉集にも書かれている。アワビには海女がつきもので、それを食べれば年も取らないし、目も美しくなると言われていた。
昆布に山椒
(こんぶにさんしょう)
取り合わせが良い事のたとえ。
日本の食べ物は「昆布に山椒」のように、海の幸と山の幸、里の幸を取り合わせると、持ち味を十分に発揮したのち、不足した個所を補いあい、不思議なうまさが出てくるものが多い。取り合わせは相性のいいもの、出会い物をもってくる。人と人にも相性があるように、料理も材料の相性を考え作ることでより良いものができる。
いけすの鯉
遅かれ早かれ死ぬ運命
魚身鶏皮
(うおみとりかわ)
物事には順序があるという事。魚は身から焼き、鶏は皮から焼く
腐っても鯛
落ちぶれてもそれなりの価値がある。本来上等なものなので腐ってもその価値は失わない
カニの死にばさみ
執念深い様。死んでもはさんだものを離さない。
逆鱗にふれる
(げきりんにふれる)
天使の怒りに触れること
逆鱗とは竜の胸にある魚のうろこの事で、天使を竜に例えられたもの
うなぎのぼり
物価や温度、人気など急に上がる事