鰻と言えば「土用の丑の日」が頭にひらめくお魚ですが、意外に知られていない様々な面があるお魚です。
今回は鰻という魚のうんちくや歴史、うなぎの豆知識を紹介させて頂きます。
うなぎのうんちく、うなぎはこんな魚
精力が付く魚の代名詞の鰻、日本人にはとてもなじみの深い魚ですね。
古くは縄文時代から食されてきたとされる鰻そんな鰻の生態をご紹介いたします。
うなぎはウナギ科ウナギ属という種類に属する魚で我々日本人が主に食しているのはニホンウナギという種類の鰻です。その他世界で19種類の鰻が存在しますが食用とされているのはたった4種類だけ、ヨーロッパなどで食されているヨーロッパウナギなどがそれにあたります。夏バテなどにも強い魚で土用の丑の日が日本では有名ですね、実際栄養価も高いのは科学的にも立証されています。ただ実際の天然ウナギの旬は11月~12月にかけてです。現在では養殖物が大半になっているため天然物を食べる機会はなかなかないと思います。蒲焼が有名ですが、関東と関西では調理の仕方が違うことでも有名です。それと昔からの迷信で鰻と梅干の食べ合わせが悪いというのも食べ合わせの代名詞と言われるほどになっています。
ということでそんな鰻をもっと掘り下げていきたいと思います。
ニホンウナギは海外生まれ?
ニホンウナギは日本に生息されるウナギで蒲焼となって食されるわけですが、そんなニホンウナギは日本で生まれているわけではないのです。
というのもそもそもウナギは回遊魚(降河回遊)で、海で産卵、孵化し稚魚は海を泳いで成長し河を上り数年過ごした後産卵の為、河を下り海で産卵するという魚です。その産卵場所も長らくわかっておりませんでしたが2006年にそれまで研究を重ねてきた東洋大学海洋研究所の塚本勝巳教授らのグループが産卵場所を特定いたしました。そこは日本から約2300㎞も離れたグアム島にほど近いスルガ海山という海中にある山です。そこで1000万個もの卵を産み付け、生まれた鰻の稚魚は遠く離れた日本に向かうのです。そして日本に到着する頃にはシラスウナギと言われる大きさに成長しています。
ウナギの99%以上が養殖ウナギ
よく耳にします天然ものと養殖もの、鰻の場合はこの割合が1:99となります。天然の鰻は現在非常に珍しいものとなり、絶滅危惧種にもなっております。というのも養殖技術が発展して養殖できるようになったのはいいのですが産卵から成長させる完全養殖までは至っておらず、養殖されるのはスルガ海山から日本に到着したシラスウナギを成長させる形になっております。ですから河に上るウナギは僅かでそのほとんどが養殖のウナギとなり我々の食卓に並ぶというわけです。さらにウナギは雄と雌が生まれながらに決まっているわけではなく成長する過程で性別が決まる魚である事から雌を放流するなんてこともできないのです。ちなみに養殖用に獲られたシラスウナギはストレスを感じることで大半が雄になるそうです。こうしたことも完全養殖ができない理由の一つではありますがその他、孵化して稚魚になってシラスウナギになるまでの生存率が5%未満なこと、成長速度が遅いこと、莫大な費用が掛かる事が挙げられます。
ウナギの旬は実は冬
養殖がほとんどの鰻ですが天然物の旬は実は冬です。夏バテ用に食べるイメージですが、鰻は冬眠前の時期に食べ物を蓄えて冬眠するためまるまる大きくなった冬が一番おいしいのです。ただし養殖物はとった冬季にとったシラスウナギを25℃前後以上の水温で飼育し(うなぎは10度以下になると餌を食べなくなり、8℃以下で冬眠する)土用の丑の日に合わせて成長させているため土用の丑の日前後が旬となります。
土用の丑の日とは?
土用の丑の日というとバレンタインデーや読書の秋などと並び日本のキャッチコピーとしてだれもが知るものだと思います。
そもそも土用とは土旺用事の略なのです。陰陽道には土を司る土公神がおり土用の期間に土いじりは避けるようにとされています。例えば穴掘り、畑仕事などこれを土用殺といいます。日にちでは立春、立夏、立秋、立冬の直前の18日間が土用となります。
土用の丑の日にウナギを食べるようになったのは?
これは様々な説がありますが一つはエレキテルで有名な蘭学者、発明家などで知られる平賀源内が鰻屋に繁盛するにはどうすればいいかと聞かれ、丑の日に「う」の字のが附く食べ物を食べると夏負けしないという俗説を引用し「本日、土用の丑の日」と店頭に掲げたのが最初だといわれています。
平賀源内自体も「江戸前ウナギ蒲焼がない人生なんて考えられない」と本に書いてしまうほどの鰻好きと知られるため、それを知っていた鰻屋がお願いしたのかも知れません。またこの説は1882年(文政5年)青山白峰著「明和史」にも記載されています。ただ他の様々な節も記録として残されているものが多いためどれが正しいかはわかりません。
うなぎうんちく 店頭での蒲焼
鰻屋の前を通るとウナギの香ばしい匂いが食欲をそそりますよね。ついつい入ってしまいたくなりますが、もともとこれは客寄せのためにやっていたわけではないんですね。というのも換気扇も無かった時代、店の中で焼くと店内が煙まみれになるというだけの物でした。ちなみに江戸時代は高級なうなぎ屋でも蒲焼前の白焼きの匂いが嫌う人が多く煙が立ち込める2階建ては敬遠され平屋が主流でした。
うなぎうんちく うな重の並と特上について
鰻屋さんにいくとランク付けで並、上、特上などの文字が並びます。ただしかしこれはウナギの質を表すものではなくウナギの大きさ、量を表すものなのです。
その他うなぎのうんちく
鰻にはうろこがある・・・実は鰻には目に見えない皮膚に埋まっている約6万枚の鱗があります。
うなぎと梅干の食べ合わせは悪くない・・・科学的根拠はなくむしろ相性がいいとされています。
関東と関西の鰻の裂き方について・・・関東では背から裂くのだがこれは江戸時代腹から切ると切腹を表すと縁起が悪いためという説がある。また関西の腹開きは商人が腹を割って話すから来ているという説がある。
うなぎの歴史
鰻と我々日本人の出会いから現在に至るまでの歴史をうんちくを含めて振りかえりたいと思います。
うなぎを最初に食した時代は?
うなぎは縄文時代の遺跡などからも出土しており、すでにこの頃我々日本人はどうやら鰻を食していたと考えられる。
ただし鰻の血液には「イクチオヘモトキシン」という毒がありそのまま口に入ると舌がビリビリするような刺激に襲われるため、生で食したのではなく、火を使えるようになってから食されるようになったと考えられます。ちなみにこの毒60℃で5分加熱すれば無毒化されることから、かば焼きで食べるには全く問題がありません。それとこの毒大量に摂取した場合は死に至る場合もあるそうですが、死亡した例がなく、マウス実験を人間に当てはめた場合、約1ℓほど摂取しなければ死には至らないそうです。1ℓて鰻何匹分なんでしょうね?
歴史に登場する最初のうなぎ
鰻が記録として初めて登場するのは「風土記」(713年)であります。その後すぐに万葉集にも描かれていることから、この頃には割とポピュラーなお魚になっていたのではないかと考えられます。
万葉集には奈良時代の有名な歌人大伴家持が病弱な知人石麻呂に向け送った歌がのせられています。
「石麻呂に吾れもの申す夏痩せに吉しという物ぞ武奈伎とり食せ」
これは「石麻呂よ、夏痩せに良いという、鰻を獲って食べろ」とうたったものでありますから、すでに鰻の栄養化が高いということを肌で感じていたということが分かります。
その後も醍醐天皇(885年~930年)が選集させた薬物の書の中に、水産生物としてムナギ(ウナギ)が挙げられていることから薬として考えられるほどであった。
この頃ウナギは主にぶつ切りにされ汁物、煮物等にも用いられていた。
うなぎの栄養素
DHAやEPA、ビタミン類など多くの栄養素を持っています。特に疲労回復にいいビタミンB1や抗酸化作用を持つビタミンE、脳細胞の活性、成長促進に役立つDHAなど健康的な体を作る成分あるため夏バテに実際効果的であるといえるでしょう。またウナギの脂肪成分は不飽和脂肪酸なのでコレステロールを抑制する働きもあります。
うなぎ歴史 蒲焼の登場
その後蒲焼という言葉が室町時代の「鈴鹿家記」(1399)に初めて登場します。室町時代の料理書には蒲焼の文字は出てきますが、蒲焼は蒲の穂(がまのほ)状に丸のまま焼く、とあります。つまり蒲焼の由来はここからきており現在のものとは全く違う形として供されていたのです。
その後1700年頃(元禄十三年ころ)には林鴻作著「産毛」京都四条河原の夕涼みの絵に露店の鰻売りが描かれ行燈には「鰻さきうり」「同かばやき」と描かれています。つまりこの頃には鰻が丸のままではなく切られて(さかれて)売られていることが分かります。
その後千葉県の野田や銚子で作られる関東醤油(濃い口醤油)の普及に伴い醤油味の蒲焼が普及してきた。・・・この頃までは味噌や塩、酢などで食されていたとみられるが、刺身なども醤油が普及する前はこれらの調味料で食べられていたため一般的であった。
また1723年山岡元隣著「増補食物和歌本草」には、「やきうなぎは山椒とみそよし醤油にて、、、」と記されています。
1728年の「料理網目調味抄」には「一度焼てあつき酒を数編かくれば油とれ皮もやはらきてよし又焼時醤数事付焼へし」とあり、現在の味に大分近寄ってきていたのかもしれません。
この頃の多くは屋台で蒲焼を販売する店が多かったが1760年を過ぎた頃位から家屋でウナギを提供する店が増えていった。
1800年の「万宝料理秘密箱」には酒と醤油を使うことが記されていますが、当時の酒は現在の清酒とは違い、糖度の高い精製されていない酒も飲まれていましたので、「醤油と酒」書かれていても、現在のタレとほとんど変わらない醤油と味醂の味に近かったと考えられています。
ちなみに江戸でも1800年頃までは関東風と関西風が混在して売られていたようですが、それ以降は関東風だけが着実に進歩し江戸っ子の食文化の代表として定着し江戸での関西風の蒲焼はだんだん姿を消していきました。
1828年厭離斉宗知著「遊歴雑記」には「その初めしらやきにし、太るを温かなる内に重箱様の物へ入少しの重みを置て蓋して蒸らしそうろう」と書かれていますので、調理法は違いますが関東風の柔かい蒲焼になっていたと思われます。
1800年後半には鰻売りも様々になり高級店と言われる立派な店構えの両店感覚の鰻屋、うな丼、ナマズの蒲焼、どじょうも扱う「めしや」や、天秤棒で蒲焼を売り歩く蒲焼売りや露店や屋台のようなうなぎ屋などが混在した時代でした。
1850年以降に出版された本には今までなかったうな丼が記載されるようになります。つまり1800年以降にようやくうな丼が誕生したと思われます。
その後うな丼は芝居小屋などの出前等で人気になります。やがて明治時代になると丼に蓋がつき、大正時代に高価な器として漆塗りが登場すると、高級さアピールからうな重として販売されるようになります。
つまりうな丼を高級な器にのせたものがうな重ですのでうな丼もうな重も中身は同じということになります。
最後に
うなぎは古くから庶民に親しまれてきた食べ物であり、栄養に富んだ食材であることが歴史を見るに伺えます。ただそんな愛される鰻の数が減ってしまっている実情からいつか食べれなくなってしまうかもしれないというのが不安な面であります。土用の丑の日にいつまでも鰻が食べれるようにと願っております。
今回国産のウナギについて話をさせて頂きましたが、中国産のウナギ等日本に大量に入ってきています、このお話も今後していきたいと思います。