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男爵芋の由来。男爵芋を広めた男、川田龍吉とは!?

男爵芋と言えばスーパーでよく見かけるじゃがいもの品種の一つであります。皆様も男爵芋とメークインの名前は聞いたことがあるとは思います。

じゃがいもは様々な品種がありますがいもの定番と言えば男爵いもといっても過言ではないかもしれません。じゃがいも一大産地として知られる北海道で食用品種として作付面積、生産量ともに1位である品種です。

そんな男爵芋を広めるきっかけとなった川田龍吉について話していきたいと思います。

男爵芋の生みの親、川田龍吉とは

男爵芋の生みの親である川田龍吉が生まれたのはあの坂本龍馬も輩出した土佐藩(現在の高知県)である。1856年(安政3年)土佐藩士である川田小一郎、妻・美津の長男として土佐郡杓田村(現・高知市旭元町)に生まれる。幼名は熊之助であった。

川田龍吉 幼少期~青年期

龍吉が生まれた川田家は維新前のは杓田古新地で「年寄」(庄屋補佐)を務める家柄で豊農であり、郷士の身分であった。郷士は半農半武の生活で、幼少より農業を学んでいた。

龍吉15歳の時に父・小一郎(後に小一郎は日本銀行3代目総裁にとなる)が同じ土佐藩士であり、後に三菱財閥の初代総帥となる岩崎弥太郎の起こした三菱商会(後郵船汽船三菱会社へ改称)に参加する。

龍吉は岩崎弥太郎が招いたアメリカ人教師ヘースのもと、大坂の土佐藩蔵屋敷に開いた英語塾で4年に渡り英語を学ぶこととなる。

龍吉、スコットランド留学により運命の二つの出会い

1877年(明治10年)に三菱の社船を製造していた英国スコットランドに渡英、グラスゴー大学時代はグラスゴー近郊のレンフリュー、ロブニッツ造船所で船舶機械技術を学びました。(当時グラスゴーは世界の造船の中心であった)留学は7年もの間続いたがその間にじゃがいもとも出会い、欧米式の農業にも触れることとなる。

恋人ジェニーとの出会いと別れ

スコットランド留学時代の1983年(明治16年)1月に龍吉はマクギーチ書店の書店員であるジェニー・イーディーという女性と出会い、二人はやがて恋に落ちることとなるのです。デートは畑を眺めたり、暖かい焼いたじゃがいもを食べたりと素朴な物だったそうです。龍吉は造船技術を学ぶ忙しい毎日であったがジェニーと会えない日には手紙を必ず書いていました。遠く異国の地で愛を育んだ龍吉は1984年(明治17年)に結婚の承諾を得るために帰国、家族を説得し返ってくることをジェニーに約束しました。

結婚は叶わなかった

しかし結婚の約束は果たされなかったのです。当時国際結婚がとても難しかった時代、この二人の結婚は父親の大反対により、許される事がありませんでした。ただ龍吉は亡くなるまでジェニーの事を忘れませんでした。彼の死後発見された金庫の中に入っていたのは一房の金髪と89通にも及ぶラブレターでした。内容にはジェニーからの愛情あふれる言葉がつづられていました。そしてそこには×印がたくさん記されています。イギリスでは×はキスマークを意味しており、現在でも恋人の手紙の最後に×を3個記述することが一般的であります。ジェニーの手紙の×の数は最大156個記載されていたことからジェニーも心から龍吉を愛していたことが伺えます。

龍吉、結婚と男爵の爵位継承

1984年(明治17年)帰国した龍吉は横浜ドックの前身である三菱製鉄所に三等機関士として入社。

龍吉の結婚

明治21年には同郷であり高知小町としてうたわれた楠瀬春猪(当時17歳)と結婚し5男2女の子供を授かる事となる。

龍吉は郵船汽船三菱会社(明治18年に三井系の共同運輸会社との合併により後に日本郵船会社になる)の監督助役を経て1893年(明治26年)に横浜ドック株式会社の取締役になる。

父の死により男爵の爵位を襲爵

1896年(明治29年)日銀総裁在任中であった父・川田小一郎が亡くなる事となる。父小一郎は亡くなる1年前となる1895年(明治28年)10月31日に長年にわたる政財界の発展に貢献した功により男爵に叙せられた。

父の死により川田龍吉は男爵の爵位を襲爵することとなり、川田龍吉男爵が誕生することとなる。川田龍吉41歳の時のことであった。

その翌年1897年(明治30年)龍吉は横浜ドックの社長として就任。

龍吉、日本初のオーナードライバーに

1901年(明治34年)横浜ドック社長在任当時、龍吉はロコモービル社製蒸気自動車「スタンレー・スチーマー」を購入する。これが日本最初のオーナードライバーであるといわれている。龍吉は自ら車を運転し牛込から横浜ドックまで通勤していたそうです。ちなみにこの車は日本国内に現存する最古の自動車として日本機械学会より「国内最古の自家用乗用自動車」として機械遺産の認定を受けました。この車は現在2019年に北海道亀田群七飯町にオープンした「THE DANSHAKU LOUNGE」に展示されています。

龍吉北海道へ、男爵芋の誕生

横浜ドックでの経営は順調であったが軍国主義の風潮の中、国内の主要産業を兵站部とみなした軍部による露骨な干渉などもあり、龍吉は横浜ドックの社長を自ら退くこととなる。

1906年(明治39年)日露戦争時の造船不況にあえいでいた函館ドックは技術科であり造船事業経営のある川田龍吉を専務取り締まり役として招聘することとなりました。

同年に龍吉は亀田群七飯村(現七飯町)に10ヘクタールの農地を購入しじゃがいも生産に着手した。

1908年(明治41年)に海外から11種の種芋を輸入し七飯の清香園農場に種をまく。その中でひときわ品質、収穫に優れた品種があったのです。実はこのじゃがいもの特性を見抜いたのはほかならぬこの農場で働く人たちであった。当時農場で働いていた農家の主婦成田キンが管理人の安田久蔵から「いいイモだから」と分けてもらったのが普及の始まりだという。芋を分けてもらった成田キンの夫である成田仁太郎、息子である成田惣次郎がこの芋の栽培を開始し、この芋を近郊に広めていった。そしてこのじゃがいもは有名になり素晴らしい品種だということから川田男爵の名前から「男爵いも」と命名されることとなる。川田はジャガイモの品種には関心がなく品種や出自を全く記憶していなかった。こうしたこともあり男爵いもと命名されたこのじゃがいもが、アメリカの品種である「アイリッシュコブラー」と判明したのは昭和になってからであった。

龍吉農業に生涯をささげることを決意する

1913年(明治44年)渡島当別におよそ1200町歩の山林農地の払い下げを受け、そしてこの地にかねてから抱き続けていた農場を建設、最新式の農機具を多数輸入し機械による農業を試みるのであった。1918年(大正7年)には大野の徳川農場へも種芋として男爵芋を分譲した。

男爵芋が北海道の奨励品種に

1928年(昭和3年)に男爵いもはメークインとともに北海道の奨励品種(その都道府県に普及すべき優良な品種)となりのちに全道移出物品評会でも第1位に輝いた。その後も生育期間の短さや広い地域への適応力などの特性から日本全国に普及し、戦時中には食料統制により定められ、統一された品種であり、また戦後の貧しい時代の食糧難にも活躍することとなる。現在でも男爵芋は一般的なじゃがいもの一品種として我々の食卓に並んでいるのである。

川田龍吉95歳にして亡くなる。

晩年を農業の発展に貢献してきた龍吉、1935年(昭和10年)には書簡で土佐に住む姪の川田三七子宛に、留学時代にイギリスで食べたじゃがいもの味について記しており「私が英国に滞在していた時、夜分の事であるが大きな車をひきながら、ホキーポキーホキーポキーホキーポキーというて売っていたから買ってみた。それがじゃがいもの焼いたもので、車にかまを取り付け、焼きながら売って歩いていたが、「皮付きのままでなかなかおいしかった」とある。龍吉がじゃがいもなどの農産物にひかれたのはイギリス留学というきっかけがとても大きかったのかもしれません。

龍吉は妻と子を先に亡くしており、1947年(昭和22年)に当別を自らの永住の地と決めました。翌1948年(昭和23年)にはトラピスト修道院にて洗礼を受けキリスト教となり、洗礼名ヨゼフを授かります。

その3年後の1951年(昭和26年)幕末に生まれ、明治、大正、昭和、そして戦後まで生きた龍吉は老衰により95年の長い人生を閉じました。その遺体は洗礼を受けたトラピスト修道院に眠っています。

その後

龍吉が亡くなる4年前、昭和22年七飯町鳴川の清香園農場跡に建つ「男爵芋発祥の地」記念碑と五稜郭公園内にある「男爵芋を讃ふ」の記念碑が立てられる。

1978年(昭和58年)渡島当別の跡地に男爵資料館を開設(現在は閉館)

1979年には「いも男爵と蒸気自動車」というタイトルでドラマ化、川田龍吉は愛川欽也が演じた。

2007年4月にオープンした函館男爵倶楽部ホテル&リゾーツは川田男爵が名前の由来になっているとのことです。またこのホテルには「Cafe Miss Jeanie」というカフェテリアもあります。

2017年 川田龍吉の功績をたたえる七飯男爵太鼓創作会の有志でつくる音楽隊「和聲アンサンブル・リオ」による初公演が函館市内で開かれた。

2019年に北海道七飯町に当時の農作器具やジェニーとの手紙などが川田男爵にまつわる500点もの展示物が並ぶ「THE DANSYAKU LOUNGE」がオープン。

他に「サムライに恋した英国娘」や「川田龍吉伝-男爵芋の父」などの書籍にもなっています。