長ネギには、白い部分を食べる『根深ねぎ』と葉の部分を食べる『葉ねぎ』があります。
関東の人は根深ねぎが主流でこの根深ねぎの事を、長ネギや白ネギと呼びます。関西では葉葱が主流です。
ネギの発祥と原産地
ネギの原産地は中国西部やシベリアとされていますが正確な場所などは分かっていません。
いつ頃から生育されていたかについても正確な年代は不明です。
中国の五行の一つでえ前漢時代(紀元前202年~紀元8年)の経書である「礼記」にはネギの調理法が記されています。このことからおよそ2000年前にはネギは栽培され食されていた事が想像できます。
中国最古の薬物書である「神農本草経」(1~2世紀と推測)や漢方医学の名書である「名医別録」(3~4世紀頃)には効能や利用法などが記載されており、漢方としてネギが用いられていたことを示しています。
斎民要術(530年)では既に冬ネギと夏ネギに分化されており、その後華北では太葱群(根深など)、華中・華南では細葱群に分化したとあります。
つまりこの頃には関東の長ネギと関西の葉ネギの様に分かれていたのです。そして日本と同じように寒い地域では長ネギが栽培され暖かい地域では葉ネギが栽培されていたのです。
長ネギ日本にどうやって来たの?
日本へネギが伝来奈良時代かそれよりも前とされており、中国から朝鮮、そして日本へと伝来したとされています。
日本でネギが記さている文献はいくつもあり古くは日本書記(720年)や万葉集(764年)にも登場、延喜式(927年)に栽培方法の記載がされていることからこの頃にはすでに栽培されていたことが分かります。
日本書記の書中に仁賢天皇6年(493年)9月に「秋葱(あきぎ)」の名で登場するのが確認できている日本最古の記録であると言われています。
平安時代の薬物辞書である「本草和名」(918年)には「和名岐」と和名で記されています。
江戸時代の農業書である「農業全書」(1697年)には「冬を大葱と云い春夏を小葱と云ふ」と記されその特徴、栽培方法などが詳しく記載されています。
ネギの由来
ネギの由来は「根葱」からきていると言われ、茎の様に見える葉鞘(ようしょう)の白い部分を根に見立てたことから呼ばれたという説があります。
白ネギ・葉葱
関東では白い部分の多い根深(白ねぎ、長ネギ等と呼ばれる)、関西では青い部分を食べる葉葱(九条ネギなど)が好まれるようにいつからかなったが先述のように伝来前の中国ですでに分化されていたのです。
根深は耐寒性に優れる反面温暖な気候に弱いことなどから栽培面でそれぞれの地域に根付いたものと考えられている。
西洋ネギである「リーキ」は明治時代初期に始めて日本に伝来しましたが従来の根深ネギなどが普及していたことから親しまれませんでした。
逆に中国原産のネギはヨーロッパには16世紀に伝わりましたが、すでにリーキが存在しておりあまり浸透はしませんでした。
またアメリカには19世紀になって伝わったそうですが、アメリカではタマネギが広く普及していたこともありヨーロッパ同様にあまり浸透はしませんでした。
全国各地のブランド長ネギの歴史
朝鮮から伝来したネギは各地に渡り、その土地や栽培方法により姿形は微妙に変わり各地域に根付いていきました。
それぞれがその土地のブランド葱として発展していきました。
仙台曲がり葱
(東北北陸)
余目葱(あまるめねぎ)とも呼ばれる。
発祥は仙台市岩切地区であり1909年(明治42年)地区住民の永野一が優良の品種を導入、育成や軟白技術の 改良を試み、大正初期に「やとい」という新たな栽培法を確立。
その技法に適したネギとして松本系一本太ネギである「余目一本太」という品種が選定されました。
その後「やとい」技術も広まり、その地名から「余目葱」として名が知れ渡り、その後出荷名を仙台曲がり葱を統一し東京の市場への出荷もされるようになりました。
平田赤ネギ
(山形県酒田市平田地域)
その発祥は江戸時代末期に最上川舟運(船によるかつての運搬経路)で種がもたらされたのが始まりとされています。
下仁田ネギ
(群馬県甘樂群富岡地区)
その発祥は定かではないが下仁田町の桜井家の伝わる江戸時代後期、文化2年(1805年)の古文書「ねぎ御用につき江戸急送方達」によると「御用につきねぎ200本、きぬ3疋藩を支給送れ。運賃はいくらかかっても構わない」とされる文書があります。
また江戸時代後期の文政8年(1825年)より高崎藩主となった藩手松平輝承の御側頭取である原小兵衛の日記には大名(藩主)・旗本から交友のあった諸国大名宛に年末年始に下仁田ネギを贈答されていたことが書かれている。
これこそが下仁田ネギという記述が見られる最古の記録と言われている。
明治16年(1883年)に刊行された小学校の教科書には「下仁田ノ葱ハ最モ著名ナルモニシテ」と記述されている。
明治20年(1887年)大阪万博出品の際に正式名称として「下仁田葱」とされる。これ以前は上州葱や西牧葱とも言われていた。
明治41年(1908年)10月に後の大正天皇に即位する当時の皇太子殿下が陸軍の演習視察の際に下仁田ネギを献上した記録があります。
昭和9年(1934年)には陸軍特別鯛演習並びに地方行幸に際し、西牧村西野牧(現在の下仁田町西野牧地区)の佐藤勝造、吉田村、相川次郎が皇室へ献上品として下仁田ねぎを納めた。
深谷ネギ
(埼玉県深谷市)
深谷ネギの発祥は1897年(明治30年)頃とされています。
深谷市では幕末より藍染めで知られる藍の栽培が盛んであったが、明治初期にこの藍の値段が大暴落を起こしたことでそれに代わる植物として長ネギが栽培されるようになったのが始まりです。
また深谷市は繭を生成する養蚕業も盛んであったが、1929年(昭和4年)の世界恐慌に見舞われたことで繭の価格も暴落し、養蚕業者も長ネギの生産に転化したことで現在に続く大規模な長ネギの生産地へと変わっていったのです。
千住ネギ
(東京)
起源は不明であるが江戸時代にはすでに栽培されていたと考えられている。
明治時代(1868年~1912年)中期には本格的に生産されており日露戦争(1904~1905年)の戦勝景気にのり需要も急増した。
大正の頃(1912~1926年)の千住市場では正月の初荷に1束150kgの巨大な荷姿のネギを出荷して祝うなど産地の勢いが感じられた。
越津ネギ
(愛知県江南市・一宮市)
根深と葉葱の中間品種のねぎ
発祥は旧海部郡神守村越津地域(現愛知県津島市越津町)、江戸時代中期徳川三代将軍家光の時代(1623~1651年)に介された。
徳川幕府の献上品にもなっており、現在は「あいちの伝統野菜」にも選定されている。
岩津ネギ
(兵庫県朝来市)
根深と葉葱の中間品種のねぎ
1903年(明治36年)、朝来の広報誌である朝来誌によると生野銀山が栄えた江戸時代後期の享和3年(1803年)頃に、銀山の労働者の為に冬の栄養源となる冬季野菜として栽培させたのが発祥とされています。
矢切ネギ
(千葉県松戸市)
発祥は1870年~1871年(明治3~4年)頃と言われており、当時の東京府下砂村(現東京都江東区)から「千住ねぎ」の種子をもらい栽培が開始され、1879~1880年(明治12~13年)頃には市場に出荷するようになりました。
徳田ネギ
(岐阜県)
幕末に尾張国(現愛知県)で栽培されていたネギの種子を八剣村(現岐阜県岐南町)の人が譲り受け「徳田ねぎ採種園」を作ったのが始まりとされています。
その後生育した種子を近隣農家に配布した事で村一帯に普及し現在まで親しまれています。
2002年(平成14年)には岐阜県より、飛騨・美濃伝統野菜に認定されています。
金沢一本太ネギ
(石川県)
明治末から大正初期に金沢付近で栽培されていた金沢ネギを改良した物こそが金沢一本ふとネギでありそのルーツは金沢ネギにあります。
金沢ネギの来歴こそ不明でありますが、1908年(大正5年)の「石川県園芸要鑑」によると元々金沢ネギは「マツエタネギ」とも呼ばれておりその原種は長野県松本地方であるとされています。
現在は「加賀野菜」の一つとして伝統を継承しています。
リーキ(ポロネギ、ポワロー)
ヨーロッパの人々に愛される西洋ネギです。
地中海沿岸が原産とされるリーキ、その歴史は非常に古くヨーロッパでは古代エジプトやギリシャ時代から栽培されていました。
古代ローマ第5代皇帝ネロ(37~68年)は数千人に及ぶ観衆を集めてワンマンコンサートを開くほど歌が好きであったが、そのネロが「美声の薬」としてリーキを用いていたそうです。
ウェールズでは守護聖人であるデイヴィッド(500~589年)のシンボルともなっており、3月1日の聖デイヴィッドの日にはリーキを身に着ける習慣があります。
デイヴィッドは敵味方の区別をさせるために帽子にリーキをつけさせたことからちなみこのような習慣になったと考えられています。またウェールズでは国花、国章にもなっております。
日本には明治時代に伝来したものの、長ネギがすでに普及しており、日本に根付くことはありませんでした。
現在日本ではオランダ産やベルギー産の物を輸入することが多く、わずかではありますが静岡県などでも栽培されています。