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タマネギ歴史。タマネギの発祥!日本の玉葱の始まり

タマネギ歴史

玉葱の歴史は古く現存する最古の栽培植物の一つとされ、人類が狩猟採集から農耕社会に移行するに伴い、野生のものを畑で栽培し、生長がはやく輪形が大きい苗を交配するうちに、現在栽培されている大きくて甘い鱗茎を持つタマネギに近いものになっていったと考えられる。

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タマネギの発祥と歴史

玉葱の原産地はペルシャやバルチスタンと言われているが定かではなく、西アジア地域の方であると考えられている。インド、トルコ、エジプトなどで野生種に近い品種が古くから栽培されているもののタマネギの野生種は未だ発見されていない。

栽培の歴史は古く、紀元前1600年ごろの古代メソポタミア・バビロン第1王朝時代に書かれたエール・バビロニアン・タブレットと呼ばれる粘土板に楔形文字で書かれた古代レシピの中に玉葱が多数使われているのがうかがえる。また、古代エジプト王朝でもタマネギが食されており、紀元前5世紀ころからパンやビールと共にタマネギを食べる労働者が描かれている壁画や、紀元前300年ころピラミッド建設に従事した労働者にニンニクや大根とともに配給されていたという記録が見つかっている。またピラミッド制作時の配給されていることから紀元前3000年前にはあったのではないかという説もあります。 

中央アジアから商人によって中東に持ち込まれ、そこから世界中に広まっていったとされる。日本へは江戸時代末期に渡来しました。

紀元前後のタマネギの歴史

紀元前600年頃にはインドに伝播し、紀元前400~300年頃に中東からヨーロッパ地中海沿岸に伝わった玉葱は、古代ギリシャ人、古代ローマ人にもニンニクと共に愛好された。当時の古代ローマの剣闘士はタマネギの汁でマッサージしてから闘技場に入場したそうである。これは日本でいうと、厄払いのため勝負事などの時に塩を振るのと同じだったのかもしれません。なぜなら古代エジプトやヨーロッパにおいてタマネギは魔除けのような要素を持っていたことがあります。エジプトではミイラの作成時にタマネギを眼窩に入れていたそうです。また古代ギリシャではオリンピア祭典競技(後のオリンピック)の出場を目指す選手にタマネギを食べさせていた記録があります。魔除けの他に精力増強の野菜として考えられていたことが伺えます。大プリニウス(西暦23年~79年)は「博物誌」の中で様々な種類のタマネギについて詳述している。古代ローマ人は、多くの料理に玉葱を好んで使ったほか、旅先にも持って行ったため、北ヨーロッパにも広まっていったとされる。古代ローマのアピシウス(4世紀~5世紀に作成されたと推定)という料理書にもタマネギが多く使われています。また古代ギリシャには「愉快だ、愉快だ 兜をおっぽり投げて チーズとタマネギにゃおさらばだ 戦いは嫌いだ」という兵士が歌ったと思われる歌が残っており、チーズと玉葱が兵士に配給されていたとも思われます。

古代中国の儒教の経典である「礼記」には、当時の中国の食事に欠かせない食材になっていたことをうかがわせる記述がある。しかし4世紀の道教では「匂いの強い野菜」の使用を禁じており、その中にタマネギも含まれていた。その為、漢の時代にはニンニクと共に赤い紐で軒先に吊るし虫除けとして扱われていたそうです。

吊るされたタマネギ

世界に伝播したタマネギの歴史

ローマ帝国滅亡後、領土を拡大していた800年頃(9世紀頃)のフランク王国のカール大帝は、帝国の庭園で90種類の野菜や果樹を栽培するよう勅令を出した。その中に玉葱をはじめとするネギ属の野菜が含まれており修道院などの大きな菜園で栽培されていた。

中世ヨーロッパでもっともなじみのある野菜として定着した背景には、栽培が容易で冷蔵技術がない時代でも保存がきき、可食部も多く、さらには霜や低温に強いなど、ヨーロッパ全土で栽培が可能であるということが理由としてあげられる。しかし中世ヨーロッパでは食材にも階級意識があり、安価で手に入りやすい野菜としてあらゆる階級の人々が利用したため、タマネギが卑しい食べ物とされることもあった。

中世ヨーロッパではバンパイア伝説に伝わる魔除けの際にニンニクと同等のような形で表現されており、タマネギやニンニクはバンパイアの他、悪霊やヘビ、トラ、ペスト、風邪などの悩みの種を撃退するものと信じられてきた経緯があります。これは独特の刺激臭により虫などを寄せ付けないことからそうさせていたのかもしれませんが定かではありません。

「千夜一夜物語」(9世紀)や旧約聖書(13世紀)にも食べたり精力剤にしたりという話がいくつか出てきています。

14世紀(1300年代)

14世紀にペストが流行した際、ロンドンでタマネギとニンニクを売っていた店が感染から免れたということから広く普及されたと言われている。

タマネギ市場

15世紀(1400年代)

アメリカ大陸には1492年コロンブスがカリブ海のイスパニョーラ島(現ハイチ共和国、ドミニカ共和国)などの西インド諸島に持ち込んだとされている。これが新大陸(または新世界:アメリカやオーストラリアなどヨーロッパの人が当時未開の地を指す)に初めてもたらされたタマネギである。

15世紀にはドイツでタマネギ料理は普及したが、まだヨーロッパ全土には普及していなかったとされている。

16世紀(1500年代)

16世紀には様々な外国品種のタマネギがヨーロッパで売買されておりこの頃にヨーロッパ一帯に広まったと言える。

2色のタマネギ

17世紀(1600年代)

スペインの作家ミゲル・デ・セルバンデスの小説「ドンキホーテ」の作中で従者のサンチョ・パンサに食い物がないか尋ねると、サンチョは「タマネギとチーズのかけら、それにパンが少し、しかしいずれも旦那様のような方が召し上がる食べ物じゃないです」と答えている。このことからタマネギはこの時代において上流階級が好んで食べるものではなかったと推測される。またシェイクスピア(1564年~1616年)の作品の中でもタマネギとチーズは貧しい物が食べるものとしている。ちなみにスペインのことわざで「あなたとならばパンとタマネギ」ということわざがありますがこれはあなたとならばパンとタマネギだけの貧乏暮らしでもかまわないという意味です。

タマネギとドン・キホーテ
ドン・キホーテ サンチョ・パンサ像

歴代最高額のタマネギをうっかり食べた船員の逸話
時は1630年代。ヨーロッパがチューリップに湧きたちバブルがおきており投機の対象とされ、品種によっては大変高額な値段で取引されていた。(バブルがはじけた後は多くのチューリップ投機家が破産した)
こうした中でチューリップを運ぶ船の船員がタマネギを食べたのであるが、これは実はタマネギではなく当時特に高価であったセンぺル・アウグストゥスという品種のチューリップの球根であった。当時の市場では5500フロリンという値段がつけられる代物で、当時5500フロリンと言えば一般的な年収の実に10倍以上に相当する額であった。チューリップの球根だと知ったこの船員は「どうりでまずいタマネギだった」と言ったという。

18世紀(1700年代)

18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパではイギリスの農業革命をきっかけに飛躍的に良化された品種が次々と開発された。東ヨーロッパでは辛みの強い玉葱群、南ヨーロッパでは辛みの少ない甘玉葱群がつくられた。しかしビクトリア時代のイギリスやフランスでは、タマネギは貧しい階級の食べ物でありつづけ、アイルランド大飢饉の際には貧困者救済のために供されたスープやシチューなどの料理のかさ上げに玉葱が使われた。世界の相当な部分を自国の領土として植民地を広げていった大英帝国は、自国の伝統料理やカレーを持ち込み、タマネギを世界各地に広めることも一役買った。

タマネギスープ

19世紀(1800年代)

アメリカでも安価で購入できることから南北戦争を前後する時代に普及している。またタマネギやニンニクの汁はあまり強くない抗生物質の働きがあり、アメリカ南北戦争の時代にはタマネギの汁は銃で受けた傷の治療によく用いられた。北軍のグラント将軍はタマネギが無くなった時にワシントンの陸軍省に「タマネギがない限り私の隊は動かさない」というメモを送ったことで知られる。このことを受け直ちに陸軍省から荷車3台分のタマネギが戦地に送られたそうである。

絵

日本でのタマネギの歴史

タマネギが初めて日本へ伝播

日本では江戸時代まで外国との交流を制限したため、タマネギが伝わった1770年ころ明治時代の初めに長崎に伝わったのが最初だと言われています。ただ最初は観賞用でしかなく普及することはありませんでした。

スウェーデンの植物学者のツンベルク(トゥーンベリ)著「江戸参府随行記」1775年にタマネギが長崎で栽培されていると記されています。

シーボルトが書いた日本植物誌にも同じく1775年に長崎でタマネギが栽培されていた記録がある。

タマネギの花
タマネギの花

タマネギの食用としての栽培のはじまり

食用栽培としてのタマネギは1871年(明治4年)に札幌でアメリカから導入した種子による試験栽培が始まりでした。この時の品種はさだかではありません(ダンバースだとされる説があるが栽培の結果しか残ってないこと、栽培方法が後の札幌黄と違うことからダンバース品種ではないであろうことは明白とされています)

北海道でタマネギ品種「札幌黄」が誕生

1876年(明治9年)に札幌農学校が開校しマサチューセッツ農科大学学長のウイリアム・スミス・クラーク(Boys be ambitious「少年よ大志を抱け」という言葉を残した人物で、日本ではクラーク博士として有名)が初代教頭として赴任、翌年クラーク博士が帰国、教え子のウイリアム・ブルックス博士(日本にスケート靴を持ってきた人物として有名)が、農学教師・農学博士の延長として仕事を引き継ぐ形となります。この際に故郷であるマサチューセッツから「イエロー・グローブ・ダンバース」の種を持ってきて、タマネギの春蒔き栽培を指導します。近くの札幌村でも自家栽培が開始され食用栽培のはじまりとなります。札幌村が近くであった事からブルックスは出回って栽培方法を指導して回る事も多かったという。この種を札幌の農民が代々自家採取して、「札幌黄」という、収穫した秋から翌春まで貯蔵できる品種にまで育てます。

タマネギ栽培

その後1880年(明治13年)に中村磯吉が自給分だけの自家栽培ではなく農家(売る事を目的)として初めての栽培を行った。栽培したタマネギを函館や東京で販売を試みるも馴染みのない野菜であることから失敗。しかしその2年後に今度は武井惣蔵が地元の商人に販売を依頼する方法で商品出荷の第一歩を築き成功を収めました。1871年の栽培開始の際に寒冷地での栽培に向くタマネギが北海道の気候に適応したことで、後の春蒔きタマネギ「札幌黄」が生まれたのである。

大阪でタマネギ品種「泉州黄」が誕生

大阪にはアメリカから1779年(明治12年)に伝わりました。これは北海道に伝わったのと同じ系統の「イエロー・ダンバース」という品種であった。その後1882年(明治15年)に神戸の料亭でこのタマネギを見た大阪岸和田の坂口平三郎はアメリカから種を取り寄せ、苦労の末、秋まきして収穫したタマネギをまた秋に植え、翌年夏に採る栽培方法を確立します。この種を譲り受けた大阪府泉南郡田尻の今井佐治平が、息子である伊太郎、伊三郎兄弟に栽培させます。この兄弟はイエローダンバースを早生、中生、晩生の三系統に選抜、こうして秋まきで春~初夏収穫の「泉州黄」が誕生しました。その後この品種は「貝塚早生」や「今井早生」「淡路中甲高」などとして各地で変化していきます。こうして「泉州黄」は北海道以外で栽培されるタマネギのほぼすべての親となったのです。明治時代初期にコレラが関西ではやった際にはタマネギを食べるとコレラにかからないといううわさが広まった、このことは広く食べられるようになったきっかけの一つである。その後の昭和5年ごろには大阪府泉州地区で1800ha栽培され現在では3000haにも及びます。

日本に来た「ダンバース」という品種について

ダンバースはアメリカ東海岸のマサチューセッツ州にある町の名前で、19世紀には「オニオンタウン」とよばれるほどタマネギ栽培が盛んな町として知られていました。アメリカに当時伝わったタマネギは「コモン・イエロー」というただ黄色という分類だけの種で、品種とは呼べるものではなかったそうです。それを「イエロー・ダンバース」という品群に育てたのが、ダンバースの農民たちだったのです。そしてダニエル・バックストンがコモン・イエローと白タマネギの「シルバー・スキン」との交雑種の中から選抜し、育成したものが後に北海道に伝わる「イエロー・グローブ・ダンバース」という品種になるのです。

その後のタマネギ

明治時代以降、西洋料理の人気の高まったことで生産も増え、その値段も下がっていったと言われている。大正初期には白色タマネギ品種である「愛知白」も誕生します。また作付面積も約500ha程度に作付されるようになり、その後技術向上、食生活の変化などにより、現在北海道だけで約12000haで作付されている。

現在はF1品種(雄性不稔で1代のみの品種)がほとんどで交配できる品種を栽培する農家はどんどん減ってきている。このためタマネギはもちろんのこと、他の野菜でもなじみ深い在来種が絶滅の危機にある(各自治体はそんな品種を守るため奔走し絶滅直前から徐々に生産者がふえているものもある)。ブルックス博士が伝えてくれた「札幌黄」も絶滅の危機を乗り越えた品種の一つであります。食の世界遺産ともいわれ、全世界の中で伝統的かつ固有な在来品種や加工食品、伝統漁法による魚介類などであるが、少数の生産者からなる希少な食材が選ばれる「味の箱舟(ARK OF TASTE)」にも認定されています。