調味料、スパイス

毎日使っている醤油の歴史って知っていますか?

醤油の歴史

皆さん料理を作る時には醤油を使うと思います。現在の醤油は簡単に説明すると大豆、小麦などに麹を加え、熟成、醗酵して圧搾して火入れした物です。

醤油がどこから来てどの様な歴史があるのか?起源から現在までの醤油の道のりを紹介します。

醤油の起源

醤油の起源は古代の中国にあり、塩漬けの発酵食品の醤(ジャン)にあります。

日本には醤(ひしお)として伝わります。中国から日本に伝わった時期は定かではありません。

醤は醤油とも味噌ともとれるような調味料であったそうで、大豆や穀物などから作られる醤が宮内省の大膳職(朝廷での臣に対する料理を作る場所)に属する醤院(ひしおつかさ)と呼ばれる場所で製造保管されていたと大宝律令(701年)に記されていることからこれより以前には朝廷内では製造され食されていたと考えられる。

奈良時代(710~784年)から平安時代(784~1185年)の宮中宴会において、膳の上に「四種器」と呼ばれる調味料が置かれていた記録があり、その四つの「塩、酒、酢、醤」であった。

当時の醤は野菜などを用いた『草醤』肉や魚から作られた『肉醤(ししびしお)』大豆などの穀物から造られた『穀醤』の3種に分けられていました。

穀醤こそは醤油のような役割を担っていて醤油の原型と言われています。

醤油の発祥

日本へ

鎌倉時代の紀伊由良、興国時開祖であり、後醍醐天皇より法燈円明国師の名をいただいた臨済宗の高僧、心地覚心が建長元年(1249年)43歳で向かった宋での修行の際に径山寺(中国・杭州)にて径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を学びました。

およそ6年の修行をへて帰国した覚心は径山寺味噌を伝え、当時大変栄えていた湯浅は水質が良かったこともありこの地で盛んに造られるようになりました。

金山寺味噌は瓜やナスなどの夏野菜を漬け込んで作るなめ味噌の一種で調味料ではなくおかずとして食すタイプの味噌でしたが、この味噌造りの工程で樽底に沈殿した液を用い、それに改良を加えたものが醤油の起源とされています。

沈殿した液は現在のたまり醤油に近いものであったそうです。

醤油はこうした製法のみで長年造り続けられ、新たな製法が生み出されるのは17世紀になってからであった。

醤油の歴史

醤油樽

年代ごとにどの様な事柄があったのか、大まかな年代ごとに紹介していきます。

醤油と普通に使っていますが、この漢字は和製漢字で日本人が作った言葉だと思われますが、誰が作ったのかは分かっていません。

それでは醤油に似た言葉がでてきた、安土桃山時代から見ていきましょう。

醤油歴史 安土桃山時代(1573~1603年)

醤油らしきものは15世紀中ごろから文献に現れ始め1474年(文明6年)の古辞書「文明本節用集」に『漿醤』に対しショウユと振り仮名がふられているのが文献に始めて記されたものがある。

安土桃山時代の日常用語集である「易林本節用集」は醤油という言葉を初めて確認できる文献があります。

多門院日記(1478年~1610年)3人の僧に受け継がれた日記)にも醤油と言う言葉が表れます。

また1559年に中流貴族にあたる権大納言、山科言継が著した日記「言継卿記」には「シヤウユウ小桶、遺之」(シヤウユウを小桶に入れて贈った)と記されています。

京都にある相国寺鹿苑院主歴代の執務日記である「鹿苑日録(1487年~1651年の間に記されている)」には漿醤と書かれている。

1603年(慶長8年)に刊行されたポルトガル人宣教師が布教のために編纂した日本イエスズ会発刊の日本語辞書である「日葡辞書」にはじめて「たまり」という言葉が記されており、説明に「Tamari.Misoから取る、非常に美味しい液体で、食物の調理に用いられるもの」と記されています。

醤油の製造だけでなく商業としての製造、出荷も湯浅町が初めてされており、天文4年(1535年)に醸醤家の赤桐馬太郎が100石あまりの醤油を漁船で大阪の小松伊兵衛に出荷したのが始まりとされています。これを機に湯浅の醤油は各地に流通するようになりました。

天正19年(1591年)豊臣秀吉の関東小田原征伐の際に、湯浅の醸醤家である赤桐三郎五郎が兵糧米を献上したことで大船での操業が許されたのです。これにより赤桐家は今まで漁船にのせて出荷していた醤油を大型船で出荷できるようになりました。

今から約400年前の安土桃山時代の文献にも湯浅町から商品として醤油が出荷されたことが記されているそうです。

安土桃山時代から江戸時代にかかり泉州(現大阪府の南西部)の商いの町である堺のものが名産として全国に流通するようになる。

醤油歴史 江戸時代(1603~1868年)

街並み

江戸時代に入ると人口の増加に伴い醤油は酒などと共に次々と江戸へ輸送されていくこととなりました。

醤油が次第に全国への広がりを見せると湯浅組広村の濱口儀兵衛(後のヤマサ醤油の楚となる濱口儀兵衛商店の初代、1645年創業)、岩崎重次郎、古田荘右衛門らは江戸での醤油販売に着目し、下総銚子(現在の千葉県銚子市)での醤油醸造を開始しました。

下総(しもうさ)(現在の千葉県北部)の醤油造りに湯浅より製造法を下総の銚子や野田に伝来させ醤油の醸造を始めた中には現在のヤマサの他にヒゲタ醤油などの基礎となる会社がありました。

こうして銚子で1616年(元和2年)に野田では1624年(元和10年)に醤油の醸造が始まりました。

一大消費地である江戸において、上方(大阪方面)から輸送される醤油は高級品であった為、関東において「関東地回り醤油」現在の濃い口醤油が考案され野田の醤油が大きく発展したとされている。

1647年(正保4年)には出島のオランダ東インド会社によって国外の輸出も開始されました。

1600年代中頃の醤油は湯浅や讃岐(引田、小豆島)で主に生産されていたが、醤油の生産量は需要に追いついていなかったとされる。

1666年(寛文6年)には揖保郡龍野(兵庫県たつの市)の円尾孫兵衛が醤油もろみに米を糖化させたものを混ぜることにより「淡口醤油」を開発。

1715年(正徳2年)「和漢三才図絵」に「然病人間吃之不妨、蓋未醤及病油者、本朝庖厨一日不可無者也、猶華人尚麻油」とあり、これは「そもそも未醤や醤油はわが国の台所で一日も欠かすことのできないものである。それはあたかも中華の人が麻油(ごま油)尚ぶ(たっとぶ=重んずるなどの意)のに似ている」とある。

1731年(享保6年)淡口醤油を初めて開発した円尾屋は京都、江戸、大坂に出荷を開始。

1746年(延享3年)円尾屋は京都に出店し龍野醤油(薄口醤油)を京都、大阪中心に広げ発展をしていく。やがて淡口醤油は懐石料理や精進料理に用いられるようになり、現代にまで続いている。

江戸時代(1603~1868年)日本の中心であった江戸、特に江戸時代後期にあたる文化・文政時代(1804~1830年)には様々な江戸料理が完成しています。

その中には天婦羅や江戸前寿司、刺身、鰻料理、すき焼きなどがありますが、こうした料理の数々は醤油が必要不可欠と言っても過言ではなく1645年に下総で醤油の醸造が開始されなければここまでの発展はなかったかもしれない。

一方醤油発祥の地である湯浅町は徳川御三家紀州藩の保護のもとに藩の専売制も敷かれていた醤油造りの最盛期、徳川十一代将軍家斉治下である文化・文政時代(1804年~1830年)湯浅町には人家1000戸程度の中に92軒もの醤油屋が立ち並んでいました。

紀州藩の醤油に対しての並々ならぬ保護体制は素晴らしく、醤油製造者の店頭には「御仕入醤油」の表札を掛ける事が許され壺型の看板を掛けさせました、また醤油運搬船の帆には丸にキの字を記し御用船並の権利を与えた他、無利息にて資金の買い付けを行ったり、問屋の代金支払いに対しては、税の不納同様の方針で取り立てを行い、町内一同の共同責任として弁償させるほどであった。

このころには醤油造りを学びに各地から人が集まり、この地で学んだ人々が地元に帰りその製法を広めたことで全国に醤油造りが広がりました。

天明元年(1781年)には、岩国藩(現在の山口県の東部)柳井にて醸造家高田伝兵衛により「甘露醤油」(一般的にさしみ醤油などと呼ばれている物の原型)が誕生する。

江戸時代末期から明治にかけて少量の大豆を用いて造られる「白醤油」が確立されたとされています。

江戸時代の末期には値段が安く江戸前の魚介などと相性の良い関東の地回り醤油(濃い口醤油)が江戸市場を独占し、関西から江戸に降りてくる「下り醤油(当時京都が日本の中心であった為こう呼ばれた)」の消費量は減った物の世間的な評価では下り醤油は高級品とされ地回り醤油は下に見られる傾向が続いていました。

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醤油歴史 明治時代~

醤油工場

明治時代に入るとケチャップなどの西洋調味料も日本で作られるようになりますが、醤油は日本人の口に合う調味料としての地位を確立し続け、1918年(大正7年)第一次大戦後の好景気の影響で生産量も拡大し一般家庭にもまたたくまに普及しました。

そして明治時代には生活必需品となった醤油に対し政府「醤油税」を導入、醤油税は大正時代まで続きました。

昭和に入ると日中戦争(1937年、昭和12年)の勃発に伴い醤油は配給規制(1942年、昭和17年)を受けるようになります。第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)には配給公団の廃止、価格統制も撤廃したことから醤油は自由競争へと戻り、現在のような大量生産かつ均一な品質の醤油が販売されるようになりました。

1955年(昭和30年)になると技術革新により製麹技術が人力から機械化に一新され、その後はもろみ管理技術の進歩により1年以上要した醤油醸造が半年足らずでできるようになりました。

1963年(昭和38年)には「しょうゆの日本農林規格(JAS)」が制定される。これにより健全かつ安全な商品として手にする事が出来るようになりました。

1973年(昭和48年)にはキッコーマンが日本の醤油メーカー初となる海外の醤油工場(アメリカウィスコンシン州ウォルワース)を設立。

2017年(平成29年)明治22年創業のヤマモリがタイにおいて海外醤油工場初のJAS工場に認定。

世界に認められる日本の醤油

海外の醤油

1647年(正保4年)に初めて国外に輸出された醤油は最初は東アジアへと、そして18世紀(1700年代)にはヨーロッパへと輸出されました、この頃は樽に醤油を詰めて出荷が行われていました。

伝承によればフランスのルイ14世(1638~1715年)の宮廷料理にも使われたそうです。

海外に輸出される以前より醤油の存在自体は海外でも知られており、出島の三学者の一人(他に「日本紀行」などを著しい医学や植物学を日本に伝えたカール・ツンベルクと当時国禁であった日本地図などを国外に持ち出そうとしたシーボルト事件の張本人であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)であるエンゲルベルト・ケンペルの「珍奇な楽しみ」やウイリアム・ダンピアの「続世界一周旅行」などの旅行記により紹介されている。また出島三学者の一人ツンベルクは「日本の物は中国の物より遥かに上質である」と記している。

樽の代わりのコンプラ瓶

1790年からは容器に波佐見焼と言われる陶磁器が用いられその容器は『コンプラ瓶』と呼ばれました。

最初は樽による出荷が主であったが、樽に詰めて出荷するとどうしても風味が保てないため最初オランダ商人たちは自分たちが持ってきたワインの空き瓶を利用していたが出荷量の増加に対応するべくコンプラ瓶を作らせたのが始まりとされています。

表面には中身が分かるようにオランダ語で「JAPANSCHZOYA(日本の醤油)」と書かれていました。

コンプラ瓶の由来はポルトガル語で仲買人を意味するコンプラドールに由来し、当時使用されていたコンプラ瓶は現存しています。

当時の記録では腐敗防止の為、一度煮沸させ陶器に詰め歴青(現在では道路舗装用材料などに用いられる天然アスファルトやコールタールの事を一般的に指す)で密閉させていたそうです。

誤解ですその醤油

百科全書
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』百科全書)

18世紀以降にはドゥニ・ディドロの『百科全書』などの書に醤油が登場することがあったがその多くは醤油はローストビーフの肉汁から造られているという解説がなされこの誤解は20世紀に至るまで続いた。

ソイ・ソースと呼ばれています

現在世界中で醤油は利用される事となりその使い方も国によって違います。

フランスでは料理のほかに御飯に直接かけて醤油御飯としても利用され御飯専用の醤油もあるほど、また醤油の一番の輸出先であるアメリカでもある程度の規模のスーパーなどでは醤油は簡単に手に入れる事が出来ます

キッコーマンは現地に工場を初めて設立したこともあり、アメリカではキッコーマンと言えば醤油と通じる地域もあるそうです。

世界では醤油はソイ・ソースとして売られていますが、実はその全てが日本の醤油と言う訳ではありません。国によってかなり違いますが、醤油的な物を総じてソイ・ソースとなります。

日本の醤油は醗酵が必要ですが、醗酵させずに醤油と同じような商品のケミカル・ソイ・ソースという物もあります。

海外に行って日本で食していた、醤油が欲しくなったら、海外にある日本企業の物を購入するのが良いかと思います。ヤマサやキッコーマンは海外でソイ・ソースを作っています。しかし現地の人の口に合うように日本の物とは味が違うようです。