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大根の漬物種類とその歴史

大根種類

大根漬物は歴史があり親しまれてきました。大根漬物種類には浅漬けや味噌漬け、ぬか漬け、甘酢漬け、粕漬けなどがありますが、今回は大根の漬物の有名で歴史の古い4種類の漬物についてお話させて頂きます。

守口漬けとは

守口大根

守口漬けは守口大根を用いた漬物で大根から作られた漬物として歴史は古く、1585年(天正13年)に守口漬けと命名されたとしたとされている。発祥は大阪とされているが現在では名古屋の特産品として知られる意外な経歴を持つ。塩漬けした守口大根を酒粕に漬け込み繊維を柔らかくしたところに味醂粕で仕上げる独特の粕漬であり、何度も酒粕に漬け込む為、一番最初の塩漬けから完成までは差はあるもののおよそ2年の歳月が必要とされる。

守口漬けの歴史

元祖の守口漬けは河内国守口(現愛野大阪府守口市)で作られたものとされる。

1585年(天正13年)に豊臣秀吉が守口村で休息をとった所、本陣吉田八郎兵衛(庄屋源兵衛?)が漬物を献上したところ秀吉はその味を絶賛し「守口漬け」と名付けたとされている。

1586年(天正14年)には4月5日には豊臣秀吉が援を求めて上坂した大友宗麟を黄金の茶席で饗応した際の懐石の献立の中に カウノ物(香の物)モリグチ大根の文字があり守口漬けが供されたと考えられている。これは千利休が書いたものであり、守口大根の一番古い記ある。

その後守口は江戸時代になると宿場町として栄え、守口の名産となるが、当時は大根に限らず野菜を粕に漬け込んだ守口漬けが作られていました。しかし当時酒の粕は貴重品であったため守口漬けは一般庶民の口に入るようなものではなく贈答品や献上品として少量作られていたにすぎませんでした。

当時河内国で作られていたものは現在の物とは手法が違い水分淤多い汁粕に塩を加えたものに野菜を漬け込んだものでした。

明治時代になると守口宿は交通の便などから次第に衰退し、守口漬けも衰退の一途をたどる事となるのであった。

1882年(明治15年)中京地域の実業家である山田才吉が塩漬けにした大根を酒粕と味醂粕で仕上げた漬物を「守口大根味醂粕漬け」として販売したところ好評を得ることとなり、後に守口漬けと呼ばれるようになった。これが現在売られている守口漬けの製法の元祖とされる。

1950年(昭和25年)に愛知国民体育大会で守口漬けが好評を博したことにより名古屋名産として全国的に定着していったのである。

2005年の「愛知万博」でもお土産として好評を博している。

沢庵とは

沢庵

大根を干して糠床で付けた漬物、又は大根を干さずに塩漬けにしたものなどで日本の保存食として知られています。漬物の代表格としてしられ、現在でも庶民の味として愛されています。

沢庵の歴史

沢庵の発祥には諸説あり、以下が挙げられます。

  • 臨済宗の僧である沢庵宗彭禅師(1573~1646)が考案したものという説
  • 沢庵宗彭禅師の墓石が沢庵に似ていることからその名前が生まれた
  • 貯え漬けという名前が訛って沢庵漬けになったという説

どれも信憑性のある説ではありますが正確には分かっていません。

沢庵禅師が考案したという説の話になりますが、禅宗には中国から製造法が伝わったとされる大根の貯え漬けがあり、これは潮を主体にした塩辛いだけの漬物でありました。この漬物に米糠、甘柿の実などを入れて甘味をつけつけるなどしたのが沢庵禅師であると伝わっております。また沢庵禅師は3代将軍徳川家光とも縁があり、徳川家光の近侍となり家光が品川に建てた「東海寺」(1639年創設)の初代住職になっております。徳川家光が東海寺を訪ねた際に沢庵禅師が供したところ絶賛し、当時名前のなかった漬物に対し「名前がないのであれば、沢庵漬けと呼ぶべし」と言ったそうです。

江戸期の食文化を記した「守貞漫稿」や「物類称呼」などの史料にも沢庵漬けの名には沢庵禅師が由来するという記述が見られる。

こうした説を鑑みて沢庵漬けの発祥は東京ではないかと言われております。

しかし一方で同じ江戸期に刊行された辞書の「書言字考節用集」には沢庵をつける際の重石に似た沢庵禅師の墓石が由来とされている。

1695年(元禄8年)「本朝食鑑」では大根の系統、栽培法、産地、利用法、薬効などが詳しく記載されています。

江戸時代中期には沢庵漬けは庶民の味となりました。その頃行われていた風習として侍に対しては沢庵漬けは2枚にすることが自然と行われるようになっていました。というのも言葉の綾になりますが、一切れだと人切れ、三切れだと身切れを連想させることから沢庵は二切れという風習につながったのです。ただし関西では三切れは、三方(三宝=仏・法・僧)につながって縁起が良いとされていました。

江戸後期の小説家で「南総里見八犬伝」の著者である滝沢馬琴も練馬大根の沢庵を常食していた記録がある。それは「馬琴日記」の1831年(天保2年)11月10日の項によるもので汲み取りと干し大根の事が詳細に記されている。また1832年(天保3年)12月、同年4年の11月の項にも記述があり、滝沢馬琴が沢庵を常用していた記録であります。

また新撰組の副長として知られる土方歳三も沢庵が大好物であった事が有名である。

江戸時代後期には各地で沢庵づくりが広がり、三重県の「伊勢沢庵」や静岡県の「七尾沢庵」、愛知県の「渥美沢庵」、和歌山県の「紀の川漬け」など様々な種類の沢庵が地方の名産として作られるようになる。

明治時代の東京の沢庵漬けを担う人物として大野新右衛門がいます。彼は18歳の頃に漬物業を開始し1877年(明治10年)には西南戦争中の官軍に沢庵漬けを送っている。その後父新右衛門から業務を引き継いだ又蔵は事業を拡大し沢庵の販路を朝鮮や満州にまで拡大した。さらには陸軍にも納められ大野新右衛門を祖とする大野商店は当時の東京の沢庵販売の中心であった。

いぶりがっことは

いぶりがっこ

いぶりがっこは秋田県の郷土料理としてしられている大根を燻製させて作る漬物です。大根を囲炉裏の上に吊るして燻製にし、米麹と塩で漬けこむという独特の手法を用いることで大根の表面は茶色っぽい色に色づき燻製の香りが感じられます。

いぶりがっこの歴史

いぶりがっことは1964年に発売したいぶり漬けの商標であり、この名が定着しているがその歴史は古く室町時代にまでさかのぼる事と言われています。

東北地方などの雪が多く日照時間が短い地域では天日干しをする事が出来ずに家の中で吊るして野菜などを干していたそうで、囲炉裏の香りがついたことから、当時はどこの家でも囲炉裏干しされた沢庵が作られていました。これこそがいぶりがっこの発祥とされ外で野菜を干せないことで生まれた漬物なのです。

ただその後昭和30年代になると囲炉裏から薪ストーブに代わり囲炉裏の煙でいぶされることもなくなるとともに、流通が良くなったことから他の地域から普通の天日干しの沢庵が手に入るようになりいぶした沢庵を作ることも食べることもなくなり、いぶりがっこはかつての産物として埋もれていくと思われました。

しかし秋田県の漬物屋である「雄勝野きむらや」の主人がかつての囲炉裏の香りのついた商品を1964年に「いぶりがっこ」(秋田県では漬物のことを「雅香(がっこ)」と呼ぶことからいぶしたがっこという意味)という名称で販売。徐々に人気をとなり現在のような秋田県の名産として知られるようになっていった。

べったら漬けとは

べったら漬け

東京都の名産のつけ主の。大根を干さずに浅く塩漬けしたものを砂糖米、米麹で本漬けしたもの。水分が多く水瑞しくてポリポリとした食感があり、独特の香りと甘さが特徴的である。漬け込む期間は10日~15日程度と短く干していないため水分量が多く保存性、貯蔵性はあまりない。

べったら漬けの歴史

江戸の中期ごろ大伝馬町宝田恵比寿神社の市に百姓が飴と麹で付けた大根を浅漬けと称して売ったことから始まるものです。買った漬物を縄でくくりそれを振り回し「べったらだー、べったらだー」と女性に振り回して戯れたのが名前の起源という。はやり始めた江戸時代に「江戸の三白」と呼ばれ愛された「米」「大根」「豆腐」の内、大根と米の二つを使って作るかなりいきな食べ物であった。

時の将軍徳川慶喜公も好んで食べたとされています。

また東京都中央区の「新高屋」さんのべったら漬けは昭和天皇の献上品になり、その後宮内庁御用達として陛下の御膳に並ばれていたことから陛下の大好物であったと考えられる。

宝田恵比寿神社は「べったら漬け発祥の地」として神社のすぐ近くにある昭和通り沿いに石碑が立っている。現在でも10月の19日・20日には日本橋宝田恵比寿神社を中心に「べったら市」が開かれ、500軒ものべったら漬けの屋台が立ち並びます。