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じゃがいも歴史

じゃがいも歴史

日常特使うじゃがいもですが、その歴史はご存じですか?そんなじゃがいもの歴史についてご紹介させて頂きます。

じゃがいもの歴史

じゃがいもの歴史は古く15世紀にはあったとされています、そんなじゃがいもは、どの様に日本に入ってきて、扱われてきたのか紹介させて頂きます。

じゃがいもの発祥

じゃがいもは南アメリカ、アンデス山脈原産と言われている。アンデス中南部のペルー南部に位置するチチカカ湖畔が発祥とされ、標高3000~4000mの高地で紀元500年頃に栽培されたと考えられています。

じゃがいもは大航海時代にヨーロッパ各地に伝来し、日本には東南アジアを経て16世紀に伝わりました。保存性が高いため当時船乗りの食料として重宝されたとされています。

15世紀~16世紀(1400年代~1500年代)

ジャガイモがヨーロッパへ伝えられたのは、インカ帝国時代のとされている。スペイン人がジャガイモを本国に持ち帰ったのは1570年頃で新大陸のお土産として船乗りや兵士たちによってもたらされたものであろうと推測されています。

1600年頃

スペインからヨーロッパ諸国へ伝来。

17世紀(1600年代)

このころヨーロッパに広がりを見せるも一部で、聖書にない不浄の作物などとして嫌われます。植物学者による菜園栽培が主であったが、その後プロイセン王国(ドイツ)の三十年戦争の際に、踏み荒らしの影響を受けにくい作物として広がります。

アイルランドでは始めて本格的に食用作物として栽培が始められました。さらに1621年アイルランド移民により北アメリカへわたり、独立戦争の際に兵士たちの貴重な食料源となります。

18世紀(1700年代)

このころフランス王国ブルボン王朝でも広めようとする働きがあり、フランスの薬学者アントアーヌ・オーギュスタン・パルマンティエは1773年にルイ16世にじゃがいもの花束を献上し、救荒作物として勧めました。賛同したフランス王妃マリー・アントワネットが帽子にジャガイモの花を飾ったとされています。

一方イギリスではじゃがいもは国策によって評価が左右されジョージ2世(在位1727年~1760年)の時代には法令で禁止されされたこともあったが、ジョージ3世(在位1760年~1820年)の時代には広くいきわたりました。

1845年~1849年(ジャガイモ飢饉)

アイルランドでは当時、麦が地主に収奪されてしまうためジャガイモを主食材として庶民は生活をしていましたが、1845年~1849年の4年間にわたり、ヨーロッパでジャガイモの疫病が大量発生したことを受け100万人以上の餓死者を出しました。それほど庶民はじゃがいもに頼った生活をしていたといえます。これをうけてイングランド、北アメリカ、オーストラリアに計200万人以上が移住したとされる。

この時アメリカに渡ったアイルランド系移民の中にはケネディ家の先祖も含まれておりアイルランド系移民は後にその国々で大きな影響力を持つこととなるのです。

この頃ジャガイモは疫病こそあったものの高い評価を受け、アダムスミスは「国富論」において「小麦の三杯の生産量がある」と評価しており瞬く間に麦、米、玉蜀黍に並ぶ「世界四大作物」としてその地位を確立するおことなるのです。

日本でのじゃがいもの歴史

1598年(慶長3年)

諸説ありますが、1598年にオランダ人によって、ジャワ島のジャガタラを経由して長崎に持ち込まれたとされています。

1700年代

江戸時代後期の18世紀にはロシア人の影響で北海道、東北地方に移入され、飢饉対策として栽培され始めます。

1784年(天明4年)

仲居清太夫(1732年~1795年)はがジャガイモ栽培を奨励。甲州に導入した確実な記録は見当たらないが、清太夫が甲州代官時代に幕府の許可を得て種芋を九州から取り寄せ、九一色郷の村々に栽培させたといわれています。その結果甲斐国に共有さらに、信州、越後(新潟)、上野(群馬)、下野(栃木)、武蔵(埼玉、東京、神奈川)、秩父(埼玉)等まで急速に普及していった。信濃、越後、上野、下野では「甲州芋」と呼んでいるため甲州から伝わったのは間違いない)この清太夫の活躍により主に東北地方に大きな影響をもたらした天明の大飢饉(1782年~1788年)ではじゃがいもにより餓死を免れた人は多数に及び、清太夫は「芋大明神」として鎌倉建長寺中川貫道管長の書により碑と由来碑が建立されている。

1789年~1801年(寛政年間)

アイヌのジャガイモ栽培の始まり。探検家の最上徳内がアブタ場所(現在の洞爺湖虻田鱁)に種芋を持ち込み、アイヌに栽培させたのが北海道の伝来とされている。

1801年(享保元年)

植物学者である小野蘭山が甲斐国黒平村(甲府市)においてじゃがいもの栽培を記録している。

ちなみに小野はじゃがいもの別名馬鈴薯を名付けた人物である。(正確には馬鈴薯というつる性植物に対しジャガタライモを誤ってあてて書に記載した事で馬鈴薯=ジャガタライモになってしまった)

1833年(天保4年

数年に渡る、天保の大飢饉ではじゃがいものおかげで餓死を免れた人は多数に及ぶ。

1837年(天保7年)

蘭学者の高野長英(1804年~1850年)はじゃがいも栽培を奨励している。「二物考」1837年には馬鈴薯の和名であったジャガタライモ、甲州芋、清太夫イモ、清太イモなどの名で呼ばれている。

1868年~(明治維新後)

この頃から北海道の開拓の為、本格的に導入。ウイリアムクラークスミス(札幌農学校初代初代教頭、「少年よ、大志を抱け」の言葉で知られるクラーク博士である)に学び、後に「芋半官」と呼ばれた初代根室県令湯地定基により普及した。

1908年(明治41年)

川田龍吉男爵(1856~1951年)はじゃがいものアイリッシュコブラー品種(導入した時点ではアイリッシュコブラーだとは知らず、後に判明)を自営の農場に輸入(導入)し普及を図る。これこそが後の男爵イモである。

1911年(明治44年)

函館ドックも退社し余生を北海道農業の近代化のために捧げることを決意した川田龍吉は渡島当別(現北海道北斗市)山林の内の払い下げ農場を建設、最新式の農機具を多数輸入し機械化による農業を試みた。

1928年(昭和3年)

北海道で男爵芋は優良品種となった。

1975年(昭和50年)4月

北海道斜里群清里町の清里町焼酎醸造事務所が、日本で最初のジャガイモ焼酎、清里焼酎を製造販売した。